東京の首都高速道路が産声をあげたのは東京オリンピックが開催される前々年の昭和37年のことです。同年12月20日首都高速1号線京橋~芝浦間4.5Kmが開通したのでした。昭和37年(1962)の時の内閣は池田勇人内閣。通産大臣に佐藤栄作、経済企画庁長官に宮沢喜一、大蔵大臣に田中角栄が名前を連ねています。
首都高速道路は首都高速道路公団という営利団体が管理しています。公団の設立は昭和34年。首都高速京橋~芝浦間が昭和37年に開通されて以来、高度な経済発展に伴って激増する自動車交通に合わせて路線を拡張し、現在では営業路線は22路線、総延長は263.4kmに及んでいるとのこと。
首都高速道路には安全かつ円滑な運用を図るために交通管制システムが導入されていますが、これは世界にも類を見ない優れもので、本線上約300メートルおきに設置されたセンサーから情報を収集、各種情報メディアを通して利用者に提供しています。ラジオでやっている道路交通情報センターからのMEX-I情報がこれです。
さて、話は昭和34年に戻ります。東京オリンピックが開催されることが決まった当局は、まず世界に対してみっともなくない道路を作らなければならないことが急務となりました。しかし当時既に都心は住宅が密集し、用地もままなりません。かといって既存の道路を利用するにも既に大渋滞の様相を呈していて工事するどころではありません。
そこで用地として浮上したのが都内に流れる川です。川にふたをしてその上に道路を作ってしまったのです。かくしてできた道路が、首都高速道路というわけです。試しに首都高速銀座あたりを通ってみてください。頭上には古い橋の欄干が見えるはずです。
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