これは「こうしんづか」と読みます。今でも多くの土地にその地名が残っておりバス停などに「庚申塚」などがあったりします。
庚申は十干の「庚(かのえ)」、十二支の「申(さる)」が組み合わさった干支です。庚申の組み合わせは暦に使われていますから、庚申の年、庚申の月、庚申の日、庚申の時刻というものが存在します。そして庚申塚といわれる供養塔はそのほとんどが庚申の年に建てられているようです。庚申の年は60年に一度あり、最近では1980年(昭和55年)が庚申の年でした。
庚申塚は庚申信仰に基づいて建立されています。庚申信仰は江戸時代から続く民間信仰で、庚申塚とはその「庚申様」を信仰する人々が供養のために建てた石塔や像を納めた堂のことで、道の交差する辻や寺の庭などに建てられたものです。
庚申信仰とは中国の道教で説く三尸(さんし)説を母体としています。庚申日」の夜、人の体内には「三尸(さんし)」という虫がおり、その人が熟睡している間に天に上って、閻魔様さまの部下である「司命」に善悪の報告をするそうです。大きな罪は300日、小さな罪の場合は3日命が奪われる、とされます。
ということは庚申日ごとに常に徹夜をして眠らなければ、三尸は天に上って司命に人の罪過を告げることができません。だから庚申の晩には身を謹んで夜明かしをすれば長生きをすることができる、する信仰でこれを「庚申信仰」といいます。
やがてこのような信仰をする人たちが集まり、庚申講と呼ばれるようになり、青面金剛など崇拝対象の前で勤行をするように変わってきました。このような行事を「庚申待(こうしんまち)」といいます。
江戸時代には庚申講は各地で行なわれるようになり、60日に一度の庚申待を年6回で3年連続して18回実施すると、供養のために庚申塔や庚申塚を築くことが一般に行われるようになったのです。
いまではほとんど行われなくなりましたが、戦時中は集会を禁止されていたため、宗教上の行事としての庚申講を行なうことで集会の代わりになっていたようです。「お話は庚申さま」という言葉から村の諸取決めは庚申講でまとめていたことがわかります。