昭和20年(1945年)の3月10日は東京大空襲の日。戦争を体験した人にとっては関東大震災よりそのショックは強烈であったとされます。
昭和一ケタ生れの人は既に70歳に届こうとしています。実際に戦地で戦った経験のある人は80歳に近いでしょう。こういう年齢にいる人は、じつは花火が嫌いです。夏野風物詩としてだけでなく近年年中行事にも頻繁に使われる花火の炸裂音は焼夷弾を連想させます。焼夷弾の為家族を奪われた人は夏が来るたびにそのときの光景を思い出すわけです。
原子爆弾による広島と長崎の荒廃は別として、長い間国民を苦しめたのはB-29による空襲です。特に昭和19年(1944年)11月から終戦までに執拗に攻撃され、その間に飛来した爆撃機B-29の数は17500機。そして爆弾の数は16万トンにも達します。
その間死者は35万人、負傷者42万人。焼夷弾による家屋の焼失が酷く221万戸が灰になったといわれます。人々は防空頭巾をかぶり住む家もなく右往左往したのです。
そのあとも攻撃は執拗に繰り返され、東京は焼け野原。なかでも昭和20年3月10日の東京大空襲はもっとも酷く、午前0時8分から2時間40分の間に334機のB-29が飛来し、焼夷弾19万発でじゅうたん攻撃、一夜にして10万人が亡くなったとされます。
焼夷弾は人や民家を焼くのが目的の爆弾。爆発と共に周囲に油を撒き散らし火炎と熱風で地表を覆います。当時の家屋はほとんど木でできており、また3月は強い南風が吹いて火事が起こりやすいことを踏まえての空襲です。
一夜明けて空襲が終わり、水をかぶりながら逃げ、爆撃の熱でほてった家族の顔を見つけ、安堵で笑う。この時期は、毎日のように空襲警報が発令され、それが単なる警戒警報だと知るとほっとして人々の顔に安堵の表情が浮かんだとのこと。そんな東京が57年前にあったのです。
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