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[677]忠臣蔵

12月15日は赤穂浪士の討ち入りがあった日です。当主浅野内匠守の無念を晴らすために、大石内蔵助を中心とした浅野の家臣四拾七士が吉良邸に乗りこみ、上野介を首を討ち取り念願を果たすという史実に基づいた物語である「忠臣蔵」は、「仇討ち美談」、「判官びいき」という日本人の美意識に訴えて、歌舞伎、映画、小説の分野で数多く語り継がれてきました。

しかし、この歴史的事件の全貌は未だ明らかされておらず、大石内蔵助の人間像や討入りの軍資金の入手方法、幕府のお膝元である江戸での討入り作戦の実態等多くの謎に包まれているのです。

テレビなどの忠臣蔵では吉良は悪者、浅野はいじめられた、みたいに強調されていますが、実はこの事件は、喧嘩両成敗であるはずの幕府の不文律が将軍綱吉によって自ら破られた事に対する抗議の決起行動だとされています。

将軍綱吉は自分でこのような事件の引き金を引いておきながら、浅野の忠臣達の討ち入りを快挙としています。迷惑なのは吉良側でありましょう。

吉良は愛知県では名主として今でも祭られています。冷静に考えてみれば、浅野のほうこそ、殿中での刃傷沙汰はお家断絶になるということを知りながらことに及んだ浅はかさは問われて当然と言う事になります。残された家臣や家族のため奔走した大石内蔵助や関係者こそ、後の世まで伝えられてしかるべきと思います。

この事件は水戸光圀の死後起こったとされます。もし黄門様がこの時代にいたなら事件は丸く収まったかもしれませんね。ちなみに綱吉の政治で悪評が高いのは、生母・桂昌院に勧められて貞享4年に始めた生類哀れみの令で、これがために犬公方と言われていました。光圀はこの悪法を大いに諌めたとされます。

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