昨日は終戦記念日でしたね。今から56年前太平洋戦争という世界中を巻き込んだ大きな戦争があったのですが、その主犯ともいえる日本軍が敗北を認め、戦争の終結宣言をした日でもあります。
日本人の寿命が延びたという話を聞きます。なんでも世界一の長寿国なんだそうで、今年の平均寿命は女性が84.62歳で男性が77.64歳ということらしい。これが敗戦時の1945年は男性が23.9歳、女性が37.5歳だといいます。20歳余しか生きられないというのはどう考えても異常です。この原因はやはり戦死によるものなのですが、寿命が20歳余というデータが出てしまった日本が戦争に勝てるわけが無かった、ともいえます。
戦争で戦って命を落とすならそれも仕方の無いことかもしれません。ですが、日本の場合は特殊な戦死者がいました。特攻隊といわれる人たちです。特攻隊は正式には特別攻撃隊。つまり、自ら爆弾を背負い、敵に体当たりして敵の侵攻を留めようとするものです。
敗戦色濃くなってきた昭和19年。特攻隊が最初に出撃したのは、フィリピンのレイテ湾での戦いであったといいます。その前のミッドウェー海戦以降、日本軍は米軍に徐々に追い詰められていました。昭和19年6月15日には本土防衛に欠かせない重要拠点であったサイパン島が米軍に攻略されてしまいます。この攻略によりB29爆撃機による本土爆撃が可能となったわけです。かなりヤバイ戦況といえます。
日本軍としてはもはや後には引けず、米軍によるサイパン陥落の後、フィリピンだけは死守しなければなりません。しかし、そのときの日本軍の戦闘力は微々たるもの。その脆弱な戦闘力を最大限に活用するための作戦が「捷1号作戦」つまり特攻隊の出撃だったのです。
特攻隊の総指揮官は大西瀧治郎中将です。彼は海軍首脳が決定した特攻作戦のの全責任を負わされていました。そして特攻作戦の第一号として零戦に500キロ爆弾を積み飛び立ったのは、特攻隊(敷島隊)の隊長関行男大尉です。
関大尉は当時新婚だったとききます。また故郷に母と妻を残し、何を思って敵地に飛んでいったでしょうか。天皇のため?国のため?妻や子や母のため?
大西中将は計614人の若者を特攻隊として戦地に送りつづけてきました。しかし、大西中将の心は最初の関大尉を送り出した時に、既に決めていたようです。敗戦の知らせを聞き、大西中将は自らの命を絶つことにより全責任を果たしました。大西中将は、特攻は作戦ではなく「統率の外道」であると言い切っています。