[10]俺とオマエの仲

店での事件の後、私と男の関係に親密さが増していったことで、徐々にではあるが男の私への対応も変化を見せることになる。以前にも増して、頻繁に連絡を取ってくるようになったり、自分の知り合いの店だと呑みに連れて行き私を紹介したり、自分が経営している店だと連れて行き、雇われ店長に紹介したりと、男は私を彼の女として紹介し始めた。もっとも、私が働いていた店の店員君や女の子達に言わせれば、もっと前から私と彼はできていると思われていたらしいけど・・・
そしてある日、遂に男に現金を貸してくれと言われた。金額は30万円。
「現在の事業を会社として登録するのだ。」と男は言う。
「何故私に借りるのか。」と訊ねると、
「俺とオマエの仲じゃないか。」と男は言った。
・・・俺とオマエの仲・・・
沈黙の時間が流れた後、男はお決まりの極めつけのひと言「直ぐに返すから。」も付け加えた。今までも立替払いを受け入れてきたし、そのお金は殆ど返されているのも事実。しかし、今回は「現金」そのものだし金額も大きい。だからとても悩んだ。
私が悩んでいる間、男は「手続きが終わって○月○日前後には必ず返すこと。」「今までもちゃんと返していること。」「私のことを裏切るつもりは全く無いこと。」等、実に穏やかな口調で私を説得し続けた。そして私は悩みに悩んだ末、渋々そのお金を差し出すことになった。
「俺とオマエの仲」という言葉を男は以後頻繁に使うことになるのだが、私はお金を差し出した後、男の言うその言葉の意味について考えていた。「男と女の仲ってこと?」「私の物は男の共有物ってこと?」「私は男に世話になっている仲ってこと?」考えれば考えるほど貸すのが当然だったのか、貸したのは失敗だったのか訳がわからなくなったのを覚えている。
あれから6年経った今やっと理解し、キッパリと言える事がある。『この言葉を言うような男とは関わるべからず!』なぜなら、「俺とお前の仲」という言葉はアカサギにとっては、女を操る為の「話術」の一つであり、その言葉は誠実さの欠片も無いアカサギの企みの言葉そのものだからである。
早乙女夢乃

[05]よいどれの楽園

男女の質のちがいとはなんなのか。そんなものが、実際に存在するものなのか。
これは、れっきとして存在する。生命の本質とは関係ないが、在るものである。不安定と安定が、そのよい例だ。
男は、様々なことに挑戦するが、好きで挑戦しているのではない。不安定なために、やらずにいられないのだ。そのおかげで、彼らはスペシャリストになれる。
逆に女が挑戦しないのは、動機が見当たらないためだ。彼女らはすでに満たされている。幸せになる土壌がある。
このことは、男女の能動と受動にも関係がある。男は動かずにはいられず、女はじっと待ち受けている。また、男のなかには傑作が生まれるが、逆におかしな者もおおい。
女は、中間におおく集まっている。ピラミッドでいえば、頂点と底辺には男が集まり、中腹には女がおおくなる。これらは、昔からそうであった。男は、ピラミッドの頂点ふきんと底辺ふきんを固めていた。現在でも、その形は変わらない。
が、ヒューマニズムがひろまった今でも、底辺の彼らに手を伸ばす者はいない。話題にすらのぼらない。年老いた醜い彼らに、誰が手を伸ばすのかね。道徳的に、女は救済するものであっても、彼らを救済するいわれはないのじゃないかね。
では、質のちがいを生みだすものとは?つまり、肉体がその正体だ。中身がおなじであっても、肉体はちがう。あなたとあなたの肉体がミックスして、あなたらしきものが誕生している。腹が減ったら、不機嫌になるのはそのためだ。肉体を越えることは、普通では無理だ。ブラックホールを越えることができる者は、ほんの一握りでしかない。
男女の質の支配から、人は脱けだせない。一方、これらの質そのものは、たいした代物ではない。より厳密にいえば、男女の質に酔いしれているだけのことだ。まさしく、陶酔である。それは、LSDとコカインに酔いしれているようなものだ。どちらがLSDだってかまいやしない。あるのは、LSDの酔いかたと、コカインの酔いしれかたの特徴があるだけだ。
問題なのは、酔いしれかたを自分だと思い込んでしまうところにある。海で溺れかければ、パニックに陥る。車を猛スピードで走らせれば、誰しもが興奮する。不幸かな、パニックや興奮が、自分の本質だと受けとめてしまう。
それは、確かにあなたではあるが、一面に過ぎない。無限のなかの一つだ。このような質のちがいを見極め、男女を眺めると、より面白いだろう。
椎名蘭太郎