男女の本質は変わらない――と言ってきたが、肉体面にかんしてはあきらかに両者はちがうよ。そもそも、見た目がちがう。
見た目などおおきな問題にならない――という人もいるだろうが、見た目以上にその者を占うものはないよ。
男女は肉体面に異なるがゆえに、はっきりとした違いがある。たとえば、女の体は丸みがあり柔らかだが、実際、彼女達の内面には柔軟性がある。
男の場合、外見は硬く強そうだが、内面でも頑なで頑固におちいりやすい。
我々は、圧倒的に肉体に支配されている――といってもよい。
これは、遺伝子のどこの部分がつかわれたか。つまり、性ホルモンのちがいがおおきいだろう。
細胞分裂をする下等生物には男女(雄雌)は必要ない。
ただ、これにも問題はある。自己分裂では、突然変異でしか変化を期待できない。遺伝子の構造が単純であれば、それでも変化が期待できるが、構造が複雑になってくればうまいぐあいに変化することはほぼ期待できなくなる。
そこで、男女(雄雌)の二つが生まれたわけだ。二つの遺伝子を組み合わせることによって、バリエーションが一気にふえるからね。
そもそも、男女の誕生は、遺伝子が進化を遂げるための重要な転機だったわけだ。
原始的な生物、つまり我々の子孫をよくみてごらん。おおくが女のほうがおおきく、男は飾りのような存在でしかない。プロトタイプは女であったわけだからね。
ただしその後、生物がさらに進化すると、男にもDNAの配合だけでない役割というものがくわわりはじめる。せっかく二種類あるのだから、一方がただ配合の道具というより、別の役割もあったほうが有効であるという点に気づいたのだろう。生物の生存競争のなかで、それをうまく使った者が優位に立ったのだ。
こうして生態系の頂点にある人間の男女が今にいたっている。一見すると、男は柔軟性のない頑なな性におもわれがちだが、生物の歴史からみればそんなことはない。むしろ、女のほうが変わりにくい宿命を背負っている。
彼女達は、子供を産まなければならない。これは絶対条件だ。遺伝子にとって、これこそが至上の命令ということになる。
つまり、女は子供を産まなければならないがゆえに、変わりたくても制限がもうけられている。それにくらべ、男はなんと自由なことだろうね。別に、あなたにはこれといった制限はみあたらない。
いかにも頑なで頑固そうにみえるのは、それはこれまでの男の歴史がそうであったがためだ。外敵と戦わなければならなかったからね。
でももはや、そんな力は必要ない。生物は、いかにして今の環境に適応するか否かが重要だ。過去のしがらみに捕われる時間などもったいない。しがらみに捕われた者は、遅かれ早かれ消えゆく運命にある。
男は、変わり身という点ではなかなかどうしてやり手のはずだからね。さあ、そろそろあらたな環境をじっくり見回してみないかい?
椎名蘭太郎
[37]シーソーの戯れ
男女――あなたはその片割れだ。
世界はシーソーによってできており、あなたはシーソーにふかく根づいている。
実際、あなたはシーソーそのものなのだ。
右が生まれたときより、自然に左が発生した。
右が重くなれば左が軽くならなければならず、左が重くなれば右が軽くなる。
あなたが男だというなら、女がいるだろう。その逆もまた然りだ。
すべてのものには栄養の元になるものがあるが、シーソーに関しては実に欲求とコンプレックスがそれに当たっている。
どんなに美しいものでも、いや、美しいからこそ醜さとコンプレックスが必要になってくるようにね。
例えばだよ、大金を欲するチャレンジャーをみたまえ。青年実業家や投資家をね。
金を崇拝する者にかぎって、金にたいするコンプレックスがつよいよ。貧しければ貧しいほど、金にたいするコンプレックスがうまれ、貪欲になることはよくある話だ。
シーソーというものは、一方の極にあればあるほど、もう一方の極にうつりたがる。
一方の極というのは実に苦しいポジションだからね。バランスから遠のき、極に移れば移るほど破壊のちからが増していく。
これはなんということだろうね。
醜い者は、醜いがゆえに美しさに人一倍あこがれる。
醜さを憎むようになる。
男女だっておなじこと。
あなたが男らしくあろうとすればするほど、コンプレックスがうまれてくる。
女に憧れるようになる。
これは、どうしようもないシーソーの物理的な作用だよ。
極によればよるほど苦しくなるからね。
政治家はたいそれたことを言うが、その背後には何がある?
彼らの仕事は、大衆や国を動かすものだ。権力のちからを得たものだ。
政治家を目指すものほど、他者にたいしてコンプレックスを抱いているのは容易に想像できるよ。
彼らは力を、他者にたいする力を欲している。逆にいえば、他者にたいして、なんと自分が無力とおもってきたことか。
他人にたいしての無力感が、力の無さが、政治家という化け物を目指す動機になることは少なくないよ。
虚栄心がなくなれば、社会的な影響への動機もうせるだろう。
これは、慈善事業家すら例外でない。
彼らは他人のために、人助けのために、自分を犠牲にして働こうとする。
なぜかね?
彼らは、他人にたいして何らかの贖罪の意識、罪の意識があるのではないかね。実際は自分にたいしてだがね。
そもそも、どうしてそこまで人を助ける必要がある。
どうして強引にしなければならない。
どうあっても人助けをしなければならない、と決めつけることはまったくないだろうに。
助けたいとおもったときに助ければ、ありがままの姿であればそれで済むことでないかね。
なにも、決めつけることはないよ。
欲求とコンプレックスなしに、シーソーはありえないよ。
いや、この世界の美しいものはすべて、醜いものやコンプレックスを栄養源として誕生している。
シーソーとともに生きる我々は、そのことをしっかりと覚えておくべきだよ。
椎名蘭太郎