[17]意味?

私はこれまでなにをしてきたのだろう?
この世の出来事には、すべて意味があるという。
そうかもしれない。そう思えるなら、確かにそうなるだろう。裏をかえせば、すべての出来事には意味がないともいえる。
我々が、男であり女であることにも重要な意味が隠されているだろうか?
そのなかに、その別けられたもののなかにさえ・・・。
じっくり考えてみてほしい。
男と女はシーソーだ。絶えまなく動くそれ、軽やかに、そしてときおり烈火のごとく動くそれ。
シーソーは動く。
人知れず動きゆく。
あなたは男として在るか、女として在るだろう。
でも、そんなのはどっちだってかまわないよ。男と女の二つが、一つの連動となり、世界の螺旋をえがいている――人の体をつくりだす設計図とおなじよう、うつくしくも儚い物語として。
意識はアップダウンを繰り返し、螺旋をえがきつつ、とびとびに上昇・下降する。
我々の意識は波のようなものだ。昇ったあとは、かならず下降し、下降したら昇るしかない。波のようにアップダウンを繰り返し、ぐるぐるまわって螺旋をえがきつつ、エネルギーを放出したり蓄えたりする。
ただし、意識レベルが上昇・下降するのは、とびとびにだ。
エネルギーが1.00であろうと、1.99であろうと、レベル1にはちがいない。
2レベルではない。
エネルギーが2.00になってこそ、初めてあなたの意識レベルは飛躍する。我々が、ときおり突如として飛躍をかんじるのは、エネルギーの蓄積によって1から2となり、2から3になっているためだ。
飛躍は一気にくる。ドミノが倒されるようにね。それこそがブレークスルーと云われるものだ。
それにしても、我々はなんという年月を費やしてきたのだろう。その過程で、どれほどもがき苦しんだろう。
もちろん、苦しんだのはあなただけじゃなかった。すべての生命が苦しんできた。
今、この時も、苦しみの最中で途方にくれるものがいる。
どうして?
我々はシーソーに揺られてきた。
あるときは強さを求め、別のときは正義をもとめ、またときには愛を、異性をもとめてきた。そのたびに、打ちひしがれなければならなかった。
喜びと悲しみが、シーソーのように繰り返しおとずれた。
男女も、人生も、それはドラマだった。
幾度となく繰り返されるドラマだ。終わりのない、ゴールのみえない旅だった。
これらの物語は、一つのもののために、ただそれだけのもののために繰り返されてきた。ひとえに、恋焦がれるまでの、思いだけがそこにあった。それが原動力だった。
すべてのことに意味があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいい。それらはシーソーだった。そして今、シーソーを知り、理解しさえすれば、それは越えられるものであることを学ぼうとしている。
椎名蘭太郎