〔37〕勇気づけてくれるもの

先日4年ぶりに高熱を出してしまいました。夕方になると38~39度の熱が出るという日が3~4日続き、「一生このままだったらどうしよう」と本気で悩んでしまったほど。病院で診てもらったら「インフルエンザではなく、単なる風邪。それと過労ですね~」との診断が。このところ自暴自棄になり、日々飲み歩いていたので、そのツケがまわってきたのかもしれません。「飲みに行く元気があるんだから、たいして弱ってないだろう」という単純極まりない自己判断が招いた悲惨な結末ですね。寒い日はまだまだ続きます。みなさんくれぐれもご自愛を。

身動きが取れない程落ち込んでしまった時、前に進むことすら辛くなってしまった時、みなさんはどうしているだろう。

私はそんな時、何故か無意識に星野道夫さんに頼っていることが多い。写真家、冒険家、エッセイストとして有名な方なのでご存知の方も多いと思う。

私が星野さんを知ったのは、5年ほど前だった。某デパートで買い物をしている時にそこの催し物会場で展覧会が開催されていた。時間もたっぷり余っていたのでひやかし半分観に行ってみたのがきっかけだった。確かタイトルは“星野道夫写真展「アラスカの光と風」”だったと思う。

私の中のアラスカと言えば“オーロラ以外の鑑賞物は何もなく、寒くて殺風景な、できれば一生行きたくもないところ”であった。

「オーロラの写真を観るのも悪くないかな」程度の気持ちで入ったわけだが、所狭しと並べられた大きなパネル写真の中にオーロラの写真は殆どなかった。そこにはカリブーやグリズリーなどアラスカを代表する動物が美しい夕焼けや壮大な海などの手付かずの自然と共に収められていた。

全て見終わる頃、その写真にスッカリ魅せられた自分がいた。動物がかわいかったからではない。自然が美しかったからではない。言葉で表現するのは難しいが、近い言葉で言えばそこに「あたたかさ」を感じたからだった。

それ以来、私は金のある時に星野さんの写真集やエッセイを買い集めた。辛くなった時、何かにぶち当たったとき、私は彼の写真を見、彼のエッセイを読む。すると、不思議なことに自然と力がわくのだ。表の美しさのみでなく、裏の裏を見る力、そしてそこから這いあがって行かなくちゃという強い心を再生してもらえるような気がする。

たぶん普通の冒険家が書いた本だったら、感情移入しやすい私はすぐさまこの日常を捨て去り、同じ経験をしたいと願っただろう。美しい地域の写真を見たら、その場所へ出向き、自分の目で見たいと感じただろう。

だが、星野さんの写真や言葉は他の冒険家の方のそれとは全く違う。彼の本を読み終えた後は、「星野さんはアラスカで生きたけど、私はここにいる。ここが私の生きる場所、ここが私にとってのアラスカなのだ」と思わせてくれる何かがあるのだ。

つまり、彼は写真家、冒険家という枠を超えた、私にとってはとてつもなく偉大なメッセンジャーだ。

ここに私の大好きな彼の言葉の1つを書いてみようと思う。

「やっぱりおかしいね、人の気持ちって。どうしようもなく些細な日常に左右されてゆくけど、新しい山靴や、春の気配で、こんなにも豊かになれるのだから。人の心は深く、そして不思議なほど浅い。きっと、その浅さで、人は生きてゆける」(アラスカ風のような物語「早春」より抜粋)

自分が置かれた辛い状況を憂うよりも、周囲に転がるまだ自分が知らない未知なるものに勇気づけられることの方がずっと大切なんだと思う。

「やるべきことはまだ沢山ある」

漠然としていたっていい。そんな風に自分を信じる気持ちを忘れずに進んでいきたいと思う。

2002.02.22

〔19〕自律神経失調症<後編>

新しい仕事(つまり今の仕事)についてから、1カ月、いや2カ月近くは眠れない日々が続いた私は、色々な快眠方法を試してみた。人間の鼓動と同じリズムと言われる波の音のCDを聴いたり、アルファ波を刺激するアロマオイルを買い、部屋にまいたりした。

しかし、その効果は殆ど見えず、結果的にその疲れやイライラは仕事中にも及ぶようになりはじめた。

朝、電車に乗っていると、急に熱が出てくるような感覚でフラフラしてしまう、仕事中、端末を叩いていると暑くも寒くもないはずなのに、大量の汗をかいしまう、電話に出た時どもる、そんな症状が出始めてしまったのだ。

怖い、怖い。どうすればいいのだろう。途方にくれていた矢先、親友から「精神的なものだよ。しじみはいつも強がってしまうからね。そういう人には神経の病気が多いっていうから一回診てもらいなよ。」と病院を紹介された。

「自立神経失調症」

漠然とその病名が頭の中にあった私は思いきってその病院に行き、診察に入り、開口一番「たぶん私は自律神経失調症だと思います」と告げていた。

すると先生は「あなたは健全な人間よ。自律神経失調症ではないわ。」と私をまっすぐ見つめて、一笑した。

その瞬間、何故か私は大泣きし、喋ることもできなくなってしまったのだ。先生はこうおっしゃった。「自立神経失調症というのはね、病気のゴミ箱なのよ。検査しても原因が見つからない時に、しかたないから病名つけちゃえ、ってバカな医者がつけた病気なの。だからそんな風に決めつけては絶対だめ。」

落ち付きを取り戻した私はそれまでの経緯を話した。「今の状況、先のこと、全てに不安がよぎるときがあり、それには“これ”といった理由がないため、それがとても怖い」「毎日がとても無意味に感じられ、楽しいことが1つもなく、何のために生きてるかわからなくなることがある」と説明した。たぶん滅茶苦茶な説明だったと思う。

ずっとニコニコと私の長い話を聞いてくれた先生は「誰だって持つ悩みね。でもあなたは健康よ。何かに悩んだり落ち込んだりできない人間の方がずっと不健康なのよ。」

そしてまた私をチラッと見た後、「あなたはオシャレ好きでしょ?そのシャツとてもステキよ。暇がある時はそれに時間をかけなさい。きれいでいることだって、自分の身を助けてくれる大切なことの1つよ」と付け加えた。

何度も励ましてくれた後、先生は漢方の睡眠薬を処方してくれた。「それを飲んでも眠れなかったらもう1度きなさい」そう言って私は診察室を出された。

自分が単純なせいか、先生のアドバイスのしかたが的確だったせいか、はたまた処方してもらった薬のせいか、それからの私は徐々にいつも通りの元気を取り戻せるようになってきた。

実は今でも、寒い日に汗を大量にかいたり、急に眠れなくなったり、とその兆候がでることがある。そんな時はその薬に頼り、先生と話をするために病院に出向いたりすることもあるが、前に感じたような切迫した不安や恐怖感はない。

「これが今の私の正直な姿なのだろう」と思うようにしている。

強い人、弱い人、というのを私はあまり考えない。何故ならそれは状況により変わるからだ。強い人だって、周りの状況全てが自分にとって不利になれば、弱くなってしまうだろう。弱い人のその逆だってあるかもしれない。生きているということはそうやって変化し、動いているものだと私は思うようになった。

私は確かにあの時、自分を律することがうまくできなかった。あの頃の私には確実に「自立神経失調症」の兆候があった。もし、病院でそう診断されたら、それはそれで終わっていただろう。

でも、私には「絶対に違う」と最後まで押しとおしてくれた先生がいた。そういうことで人というのはしっかりした精神を持ちつづけることができるのではないかと思うのだ。

何か1つのことを結論づける前に、全く違う方向を見つめてみる、そうすることによって、それが目に見えない漠然としたことであっても、いや、あればあるほど、人というのは無限の可能性を信じることができるのではないだろうか。

大切なのは“強くありたい”時も、思いがけなく“弱くなってしまった”時にも、その根底に「健全な精神」があるかないか、なのではないか、と今、私は思っている。

2001.10.18