〔31〕“きれいに年をとる”ということ

今年(もうまもなく)私は31になります。そう、数えでいけば32なので前厄。迷信好きな母に育てられ、小さい頃から不可解な決まり事に疑問を抱きつつも、それに馴れてしまっていた私にとって「厄年」という響きは非常に大きな塊となって心の中に巣くっています。厄払いになるアイテムなど、ご存知の方いらっしゃったら教えて下さい。

先日、友達と雑誌を見ていた。それは安田なるみをイメージキャラにし、金持ちマダムをターゲットにしている雑誌で、非常に高価なファッションやインテリアの数々が毎月「これでもか!」という程に掲載されている。

その中に「きれいに年をとっている女性達」というページがあった。厚化粧をほどこし、華麗なファッションに身を包み、“私は今までこんな生き方をしてきました”“主人は青年実業家で・・”てなことが書いてある。

私はその雑誌をひやかしつつ眺めるのが好きで、その時も「青年実業家って言ったって、もう42なわけでしょ?青年じゃないじゃんねぇ」「こんな人がエルメスなんて持ったって似合うわけないと思わない?」などと友達にひがみ半分の同意を求めて話しかけていた。

なんとなく元気のなかった友人は、私の話を聞いているのか聞いていないのかいきなり「私さー、きれいに年をとってける自信ってないのよね。もう今の人生に疲れちゃった。こんな先の見えない恋愛してたって、仕方ないし」と突然言い出した。

「若い頃は親の敷いたレールの上を歩くなんてまっぴらって思ってたけど、その方が案外正解だったのかもしれないと思うことが多くなってきたんだよね」「私もきれいに年を重ねたいのに、どうもそれが下手みたいでさ、最近考えこむこと多くて」と。

彼女は昨年からずっと不倫をしている。不倫や浮気という語句には、どことなく演歌調でドロドロしたいやらしさが漂うわけだが、彼女の手にかかるとそれは、非常に爽やかでスパイシーなものに変化する。

彼女の中には「それでいいじゃない。それも人生じゃない?」というある種の開き直りに近いニュアンスが含まれ、そんな多々ある武勇伝は聞いていて小気味よいものだった。

それだけに今回の彼女の「疲れた」発言に私はビックリしてしまったわけだ。何か傷つくようなことでも言われたり、辛いことがあったのか、と聞くと、何もないと言う。

たぶん、殆どの女性は30前後になって初めて「一生一人だったらどうしよう」「一人で食べて行ける生活力をこれからどうやって養っていけばいいのだろう」などいう漠然とした現実に直面し、考え込んでしまうのではないか、と思った。

私もその友人も社会に出、10年間働きつづけてきた。刺激を求めるために、自分に本当に合った仕事を探すために、転職を繰り返した。その度に何かを感じ、絶望し、考え、そして何かを切望した。

その友人はとても逞しい生き方のできる女性だ。だから同年代の人よりもちょっとばかり何かを知りすぎたのではないか、と私は思った。逞しく生きたと同時に現実の厳しさも知っている。でもあまり様々なことを知れば知るほど、手も足も出なくなってしまう、そういう時がきっとあるのだ。

社会で鍛え上げられ、少しずつ強くなっていったと同時に、もしかするとその反面、彼女は徐々にナーバスになっていたのかもしれない。

でも、きれいに年をとることはそんなに大事なことなのだろうか。親の敷いたレールの上を歩く事は大切なことなのだろうか。人の道をそれず、「こうしたい」という願望があるのに、それを押し殺しながら生きていくことはいいことなのだろうか。

「なーんか老けたわ、私」と言いながら不安そうに鏡をのぞきこむ彼女の横顔を見ながら、「“レールの上を上手に歩くことができる人”がイコール“美しく年をとることができる人”」なのだとしたら、私はそんな人生まっぴらだと思った。

彼女のように、不安を露にさらけ出して、自分ときちんと対話し、そしてぎこちなくてもいいから、そこから這い上がって行くこと、それを繰り返しながら、人は、本当にきれいに年をとることに成功するんじゃないのかなぁ。

2002.01.11

〔25〕高まる物欲

今年は本当に暖かいですね。去年以前遡ると11月の初旬からコートを着ていたような気がしますが、今年はジャケットや薄手のブルゾンで充分間に合ってしまいます。あと1カ月我慢して、来年1月のバーゲンでコートを買おうか、やっぱりお目当てのものがあったら、今買っておいた方がいいのか、悩みが尽きない私です。

冬のファッションというのは夏のそれよりも、選んだり購入を決めたりするまでにやたらと時間がかかる。素材や着た時のシルエットの重要性もさる事ながら、何せ価格が高い!

「ワードロープの中にあったら嬉しいけど、今月は諦めよう」と見なかったふりをし、心の中で泣くことのなんと多いことか。

会社でも相当なストレスが溜まっているのだ。プライベートでも我慢我慢なんて言ってたら、そのうちストレス性の胃炎なんぞになってしまうことだってあるかもしれない。

そうだ、“生きている”ことはイコール“金のかかる”ことなのだ。

もうすぐクリスマスや忘年会など、色々なイベントがあるんだもん。(こういう時に「ボーナス」というものがないのは非常に恨めしいが)そうだ、買ってしまおう。自分へのご褒美だ。

そう思い、先日ラストシーンの白いジャケットを購入した。ウエストの部分をマークする今年風の太ベルト、シンプルに立てる襟、そして丈、着心地の良さ、そのジャケットは全てが私の好みに合っていた。

3万円という価格は多少イタかったが、これを着て歩くことによって、うきうき気分が増殖し、きらびやかに、華麗に、こころおきなく今年を締めくくることができれば、こんなお得な買い物はないだろう、そう自分に言い聞かせた。もちろん「今月はもうこれで終わりにしよ」とはらをくくることも忘れずに。

しかし、買い物というのはなんと因果なものだろう。

「今月はもうこれで終わりにしよう」という決心も、そのジャケットが自分の手中に入ったとたん、もろくも崩れ去り、私は無意識的にと言っていいほど発作的に、靴売り場に向かい、走りだしていたのだ。

「このジャケットに合う、ブーツが欲しい」

その真摯な一点の曇りも無い純粋な気持ちは、私をどうしようもない“強欲ババァ”にさせていた。靴売り場に並ぶ色とりどりのパンプスやブーツ。思わずため息をつく。「店ごと買い占めたい」と真剣に考える私がそこにいた。

「やっぱり今年はちょっとヒール高めの細身のブーツよね」そんな風に様々なブーツを物色し、ターゲットを絞った。店員に自分のサイズに合ったものを出してきてもらう。

いざ履こうとしたその瞬間だった。

「は、はいらない」

なんと内側のジッパーが、ふくらはぎのちょうど中間点で止まってしまったのだ。正直ビックリした。

いつのまにふくらはぎなんぞに肉がついていたのだろう。

私の身体は「もうこれ以上あがらないよ。無理に上げたら壊れるよ」というSOSをすぐさま私の脳に送り始めた。

しかし、脳から心にそう発信されればされるほど、私の「履きたい」欲はのぼりつめていく。悲しいほどに、切ないほどに、私はジッパーの途中からはみだしてた、自分が勝手に蓄えていたいまいましい肉の塊を見ていた。

そう言えば昔ピーコが言ってたよな、「服や装飾品にかけるお金があるのなら、まず自分の身体そのものにお金をかけなさい」と。とほほ。

そしてブーツを泣く泣く諦めた私は、次なるターゲット(そのジャケットに合った)アクセやボトム、ニットを探すため、走りまくったのだった。

その一日で使ったお金、しめて6万。

ストレスフルな社会で生きている限り、私は「物欲」というものを抑えることはできないんだろうなぁ。

2001.11.30