[30]猟奇殺人事件・・阿部 定事件
第30回
■猟奇殺人事件・・阿部 定事件
昭和十一年五月十八日の朝、荒川区の待合「満佐喜」には男女二人連れが居続けていたが、この朝女だけが買い物に行くと言って出かけたが、そのまま帰って来ないので、女中が二階の四畳半の「桔梗の間」を覗いたところ、布団の中で男が惨殺されていた・・と云う事件でした。
ただこれだけだったら痴情のもつれの事件と云うことであまり世間を騒がす程ではないと思いますが、問題はその殺し方であったようです。
男は中野の鰻料理店の主人の石田吉蔵42才で、女はその店の女中の阿部定32才(何れも数え年)。定は同年2月に「田中かよ」と云う偽名で女中として入ったが、直ぐに主人と懇意になったと云います。元々「定」は好色の女で、主人の「吉蔵」も次々に女を作るほどの女好きであったと云います。
こう云う出合いであったので、毎日毎晩情痴の限りを尽くしたようです。
そして事件の日とうとう赤い絹の腰紐で吉蔵を絞殺してしまったようです。そして敷布に「定吉二人切り」と書き、そして男の大腿部にも血液で「定吉二人」と書き、左腕に刃物で「定」と書かれており、男の局部が切り取られていたと云います。そして「定」はそれをハトロン紙にくるんで捕まるまで肌身離さず持っていたと云います。
男の局所を切り取って持ち歩くのは前代未聞の出来事として世間は大騒ぎになったようです。そして又、逃亡中に時々ハトロン紙に包んで持ち歩いた切り取った男の局所を、時折舐めていた・・とは身の毛もよだつ話ではありませんか?。
そして五月二十日午後五時半頃、品川の駅前旅館「品川館」に「大和田直」と云う偽名で投宿していた女を高輪薯の刑事が逮捕したと云います。そして所持品の中にはハトロン紙で包まれた吉蔵の局部が帯の間に挟んであったと云います。
こう云う異常な行動をするために、東大教授が精神鑑定をしたそうですが、結果は先天的な「淫乱症」であると診断したそうです。
そして12月21日東京地裁は、懲役6年と云う軽い刑を言い渡したと云います。そして控訴せずして刑が確定し、栃木刑務所に収監されたそうです。
刑務所内では模範囚で、昭和15年の皇紀2600年の時の恩赦で仮出所したそうです。「定」の人気は刑務所に入ってからも全然衰えず、結婚の申し込みが何百通もあったと云い、その他スカウトの話や映画の出演の話だの沢山の申し込みが殺到したそうです。
だが出所後の「定」は名前を「吉井昌子」と変えて結婚し、戦時中は埼玉に疎開して居たらしいが、終戦後ある新聞記者が取材に訪れたことから、平和だった家庭が崩壊したと云います。その後は転々として職業を変え、昭和46年には千葉県市原市のホテルで働いていたようですが、65才になっていたにも拘わらず、まだ若い男に貢いでいたそうです。その後は行方不明で生死も分かって居ないようですが、現在生存していれば百才を超える年齢ですね。
この話はこれで終わりませんでした。此の事件から40年後のことです。
《愛のコリーダ事件》
昭和51年になって、此の「阿部定事件」を元に、大島 渚監督が「愛のコリーダ」と云う映画を作りました。此の映画そのものは裁判の対象にはならなかった様ですが、スチール写真や脚本を纏めて出版したものが「わいせつ文書販売罪」に問われた様です。此の裁判は又大変な騒ぎでしたね。結局裁判は被告側の勝ちで無罪になったようです。
大分暗い話が続きましたので、ここら辺で又子供の世界に戻りましょう。♪
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