[100]知らなかった事件簿(1)荒木陸軍大尉の自殺

2019年3月21日

第100回
■知らなかった事件簿(1)荒木陸軍大尉の自殺
昭和2年から6年頃に掛けては世の中には様々な事件が起きていたようですね。ですけどこう云う事件もあったと云うことを記録しておくのも意義があると思いますので、書いて置こうと思います。
《荒木陸軍大尉の自殺》
昭和初期の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外務大臣は支那(中国)に対して融和な外交を執りましたが、裏を返せば弱腰外交だったと云われています。
昭和2年にも支那南京で日本人居留民が中國人の暴徒レイプされたり暴行されても、現地の日本軍は一切手出しを禁じられていました。
実際に日本人が襲われるのを目の前にして政府の指示で何の抵抗も出来なかった荒木大尉は、このひどい政府の外交方針に異義を唱え、その暴行事件の直後に自殺しました。
外務大臣であった幣原喜重郎と云う人物は、昭和20年11月に首相になりましたが、翌年4月に辞めています。たった5ヶ月の首相でした。
《佐分利貞男 駐支公使の自殺》
佐分利(さぶり)貞男は明治12年生まれの頭の良いスポーツ青年でした。一高時代はボートの名手で、東大卒業後は外務省に勤務し、担当はヨーロッパでしたが昭和4年8月に支那公使に任命されました。
当時の支那は国民党の蒋介石によって、満州以外は統一されていました。蒋介石は列強各国の不平等条約の是正を求めており、その列強の中に日本も含まれていたのでした。
昭和4年11月29日に蒋介石率いる支那との交渉役が佐分利貞男です。しかし佐分利貞男は条約改定交渉の直前に箱根宮ノ下の富士屋ホテル197号室でピストル自殺してしまったのです。
自殺前の佐分利は様子が変で、28日の朝に妻の兄の仕事場に突然電話して「娘さんを亡くしたのに非常に元気で安心しました」と異様な内容の話をして、直ぐその後に箱根に向かったと云います。
佐分利の妻は小村寿太郎の娘で、本人は非常に愛妻家でしたが、大正15年5月27日にその妻を亡くしていました。佐分利は大変悲しみ、その葬儀では佐分利自身も戒名を貰って「これで私の葬式は済んだのです。私が死んでももう葬式はしないで下さい」と声を上げて泣いたと云います。
佐分利が0時半に富士屋ホテルに着いた時は、顔色が青ざめて前に宿泊した時とは違った様子で、長尾峠から歩いて来たから非常に疲れた、と云って女中に「お茶と生卵を持ってきてくれ」と頼み、「明日は早く上京するから午前6時半に起こしてくれ」と云って部屋を閉じたそうですが、翌朝起きて来ないので女中と支配人が部屋に行くと、ベットの上で死んでいるのを発見したと云います。