[141]楠木繁夫・三原純子との出会い

2019年3月21日

第141回
■楠木繁夫・三原純子との出会い
楠木繁夫はその後テイチクからビクターへ、そしてコロンビアに移ってから「三原純子」との運命の出会いがありました。
「三原純子」は大正9年8月6日、岐阜県飛騨高山白川郷の生まれで、女学校を卒業後は名古屋で音楽の基礎を学び、上京後も作曲家などに師事して、昭和14年19歳の時、タイヘイ・レコードの専属歌手になりました。そして芸名を「三原純子」となりました。
そしてデビュー曲は「帰ろう帰ろう漢口へ」で、次には立花ひろしとデュエットで「さらば港よ」を歌い、「出島の雨」「乙女よ朗らかに」「さらば東京」「大空に祈る」「花笠おどり」「突撃喇叭鳴り渡る」「固い約束」など40曲ばかりレコーディングしましたが、昭和17年にキングレコードに移籍してからは、「点数の歌」を出しただけで、コロムビアに移りました。
そして大映映画「歌う狸御殿」に出演、それの主題歌「月の小島」で初のコロムビアでのレコーディングでしたが、此の歌が「楠木繁夫」とのデュエットであり、二人の出会いでもあったのです。
この「三原純子」は当時の世相は太平洋戦争で、国民の目が南方に向いている時に出した「南から南から」が大ヒットしました。この歌は#3まであります。
  『南から南から』昭和17年

  ♪ 南から 南から
    飛んできたきた 渡り鳥
    嬉しそに 楽しそに
    富士のお山を 眺めてる
    あかねの空 晴れやかに
    昇る朝日 勇ましや
    その姿 見た心
    ちょっと一言 聞かせてよ  ♪

そして「楠木繁夫」と恋仲だった「三原純子」はこの歌の作曲者・吉田信夫夫妻の媒酌で、昭和18年12月8日に結婚しました。楠木繁夫39歳、三原純子23歳でした。
戦時中は前述したように戦時歌謡が多く、夫婦揃って軍需工場などに慰問に行っていたようですが、昭和20年の空襲で家が焼失してしまったので、夫妻で三原の故郷の飛騨高山に疎開していたそうです。
戦後も夫婦で巡業したりして活躍していましたが、楠木は大変な酒豪であり、又二人は戦時中から覚醒剤の「ヒロポン」を常用していたために、徐々に身体は蝕まれて行ったようです。
余談ですが、当時は「覚醒剤取締法」などはなく、そこらの薬屋で誰でも買えましたよ。白い5ミリくらいの錠剤で、学生なんかは眠気覚ましとして飲んでいたし、私らは徹夜麻雀なんかするときに飲まされていましたよ。覚醒剤で後遺症なんてあるのは知りませんでしたしね。
その後にも夫妻揃って映画出演して、其の主題歌「夜風のタンゴ」などをレコーディングしたりして昭和31年まで活躍していましたが、音楽家から感染した肺結核が悪化し、夫の楠木繁夫も酒とヒロポン中毒で脳溢血で倒れてしまいました。「三原純子」は肺結核が進行したために、故郷に転地療養をすることになりました。
別居を強いられた「楠木繁夫」は寂しさと前途を悲観して、昭和31年12月14日に新宿牛込の自宅で梁に渡した縄で首つり自殺をしてしまいました。52歳でした。この時飼っていた愛犬が物置小屋の前で妙に悲しげに啼いて居たと云います。
一方の「三原純子」は療養中であるため、夫の死を伏せていましたが、頃合いを見て伝えたそうですが、最愛の伴侶の夫の死の心の影響は大きく、昭和33年10月3日に夫の後を追うように38歳の短い生涯を閉じました。
墓は岐阜県高山市の法華寺に二人は眠っています。又昭和52年にはこの高山に「楠木繁夫」と「三原純子」を偲ぶ比翼塚が建てられたそうです。
私らの少年時代は戦時中ですから、当時の歌手達の軍国調の歌謡曲は日常耳にしていましたが、この「三原純子」の名前は妙に印象強く残っており、特に「松原操」「菊池章子」と共演の「大空に祈る」は忘れられない一曲です。
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