[13]映画と芝居

2019年3月21日

第13回
■映画と芝居
この頃はまだ日本橋に住んでいた頃(昭和9年頃)はまだ7才位の時ですから、あまり映画館に連れて行って貰った記憶はありませんが、二三度はつれて行かれた経験があります。たしか日本橋周辺には映画館はなかったと思いますが、一つだけ覚えている映画館は神保町当たりにあった神田日活・・ではなかったかと思います。
昭和5、6年頃まではまだトーキーではなく、弁士がいて画面を見ながら、替わりにセリフを言って、バックには歌が流れている状態でした。映画館に入ったのは良いとしても、あふれるような人が一杯で、戸が閉まらないような状態でした。
子供は背丈が小さいので全然見えません。聞こえるのは音楽だけでした。
その時の映画は東海林太郎が唄う「野崎小唄」が聞こえていましたから、恐らくそのような映画ではなかったかと思います。母達の井戸端会議の話を聞いていると、その頃の映画の役者の人気者は「目玉のまっちゃん」こと「尾上松の助」だったようです。
此の役者は映画俳優としては草分け的の存在であったらしく、大正から昭和の初めの若い女性に圧倒的な人気があったようです。此の役者は「チャンバラ」映画の主人公らしく、当時はやりの忍術映画、「自雷也」?「児雷也」・・と云う「三すくみ」つまり「蝦蟇、蛇、なめくじ」・・なめくじは蛇より強い、蛇は蝦蟇より強い、蝦蟇はなめくじより強い・・と云うもので、「目玉の」まっちゃんは忍術を使って良く大きな蝦蟇(ガマ)になったようです。
もっとも此の「目玉のマッチャン」と云う尾上松の助と云う役者の出た無声映画は明治生まれの母親の時代のヒーローだったのですから、私達の年代より少し前の事柄であって、実際には場末の映画館で一度は見たことがありますが殆ど記憶がありません。
この頃の映画は他愛のないものが殆どで、後は新派のお涙ものが主流でした。
この頃の男優・女優などの事は又稿を改めて書くことにします。まだ年端の行かない頃のことですから・・・
日本橋浜町や人形町周辺には芝居小屋が建ち並んでいました。歌舞伎は当時はあまり見たことがありませんでしたが、連れて行かれたのは、新国劇、や新派です。新国劇では「辰巳柳太郎」「島田正吾」新派では「花柳章太郎」「水谷八重子」などでした。
明治座や歌舞伎座も賑わっていたようですが、庶民の我々には関係のない存在だったようです。まして6?7才の子供達にはね。
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