[137]緊急訃報 植木等 逝く(うえきひとし)-1-

2019年3月21日

第137回
■緊急訃報 植木等 逝く(うえきひとし)-1-
この「昭和一桁生まれのひとりごと」を書いていました平成19年3月27日に、1960年代にテレビや映画などで活躍して一世を風靡した「植木 等」が昨日・・平成19年の3月27日の午前10時41分に10年ほど前から煩っていた「肺気腫」が悪化して亡くなりました。享年80歳でした。
此の「植木 等」を何故ここに取り上げたかと云う事は、私なりに関係があるからです。私は彼とは面識はありませんが、戦後から名前は知っていました。それを少し書いて見たいと思います。
彼は非常に珍しい日に生まれています。年は私と同じなのですが、彼が生まれたその日に大正天皇が亡くなったその日なのです。つまり大正15年12月25日なのです。
大正天皇は12月25日の午前1時に亡くなりましたので、即、元号が「昭和」に改元されました。つまり午前1時過ぎの生まれであれば、昭和元年と云うことになります。ご承知のように昭和元年は実質7日しかありません。ですから昭和元年生まれは極端に少ないのです。
恐らく日本の天皇が亡くなった日に生まれたことは、決してお祝いでは無かったと思いますね、当時と今では物の価値観が違いますからね。
それで「植木 等」のご両親は戸籍上の生年月日を変えたのだと思いますよ。当時は出生届けはいつでも良かった時代らしかったようですから。それで彼の生年月日は立春を過ぎた昭和2年2月25日になっているそうです。ふた月延ばして同じ25日にしたのではないかと思いますね。私は2月11日生まれですから、私より早く生まれていながら、戸籍面では私より遅い生まれになっています。
彼は愛知県名古屋で生まれたそうですが、3歳の頃、父の植木徹誠が浄土真宗の寺の住職になったのを切っ掛けで三重県に移り住んだと云われ、以後出身地は、三重県多気郡宮川村となっています。
私が彼との関係は特にはありませんが、因縁を感じるのは彼の出身校なのです。生年月日もほぼ同じですから、同年代の年頃です。
彼は昭和19年に「東洋大学」の予科に入学し、昭和22年に同校の予科を卒業して「東洋大学文学部」に入学しました。そして昭和25年に「東洋大学文学部國漢科」を卒業しました。
此の「東洋大学」が何となく私などと因縁があるような気がするのです。では少しだけ此の「東洋大学」の歴史に触れたいと思います。
此の大学の創立者は明治期の哲学者「井上円了」と云う学者です。此の先生は仏教哲学者であり、教育家で、安政5年2月4日に越後の国長岡藩・・新潟県三島郡越路町にある真宗太谷派の慈光寺に生まれました。父は円悟、母はイク。
16歳で長岡洋学校に入り、明治10年京都東本願寺の教師学校に入学、翌年、東本願寺の国内留学生に選ばれて上京し、東京帝国大学の文学部哲学科に入学しました。そして明治18年に卒業し、著述活動をする一方で、明治20年に真理の実現をめざす人間を育成する目的で「哲学館」を作りました。そしてこれが後に「哲学館大学」となり、明治39年にこれが現在の「東洋大学」になったのです。
そしてより若い世代を育成する目的で、「東洋大学」と同じ敷地の小石川原町の鶏声ヶ窪に、明治31年「京北中学校」を創立、そして明治38年には「京北幼稚園」を創立、そして明治41年には「京北実業学校」が創立されたのです。その他にも中野区に「哲学堂」を作りました。此の「哲学堂」は現在は東京都に寄付されて「哲学堂公園」として親しまれています。
此の四校「東洋大学」「京北中学校」「京北幼稚園」「京北実業学校」はすべて「井上円了博士」が創立したものですから、「学祖」となっています。今でも「東洋大学」には「井上円了」博士の立像が立っています。
ここまで何故お話ししたかと云えば、実は私は此の「京北実業学校」の第33期の卒業生なのです。ですから同じ学祖の学校で、而も同じ年代ですから生き方は違っても此の「植木 等」の死は何となく書き残したい気になったのです。
続く
(本稿は2007年3月30日の記述です)
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