[142]昭和の歌「酋長の娘」他

2019年3月21日

第142回
■昭和の歌「酋長の娘」他
此処まで昭和初期に活躍した歌手を記して来ましたが、当時は流行歌・歌謡曲が娯楽と云うものを求めていた大衆のものでした。
今の時代と違って、耳に入る音楽はJOAK(NHK)の放送か、チンドン屋か、映画館くらいしかありませんでしたが、何時の時代であっても、若い世代の求めるものは同じだなぁ・・と思いますね。
「唄は世につれ、世は唄につれ」と云いますが、全くその通りだと思いますね。今の若い世代の唄と、中年の人が好む唄と、我々のような老人の好む唄は違いますね。「思い出の唄」と云うものは、其の時代に生きたと云う証拠です。
中年の男女はカラオケBOXで、所謂「演歌」と云うものを好んでいて、今はやりのテンポの早いリズムのものが殆どですが、我々の年代から見ると、こんな歌が将来此の人たちの「思い出の唄」になるのかなぁ・・と思いますよ?
我々の年代の者は、一杯飲むと出てくる唄は「軍歌」が多いようですね。「若鷲の歌」なんか歌っていますよね。
ここで歌手を全部書くことは出来ませんが、昭和初期からの代表的な歌手を並べて見たいと思います。此処に載せた唄は当時の子供だった私達の愛唱歌のような物で、大抵聞き覚えがある歌です。歌詞は#1だけです。
  『酋長の娘』唄・中村慶子・・大正14年

  ♪ 私のラバさん 酋長の娘
    色は黒いが 南洋じゃ美人  ♪

此の歌は私の生まれる前の歌ですけど、ずいぶん流行っていましたね。昭和に入っても歌われていました。私が知っているんですから・・ですが歌手の「中村慶子」と云う人は聞いたことがありませんでした。
  『出船の港』唄・藤原義江・・昭和3年

  ♪ ドンとドンとドンと
    なみのりこえて
    一挺二挺三挺
    八挺櫓でとばしゃ
    さっとあがった
    くじらの汐の
    汐のあちらで
    朝日はおどる  ♪

此の「藤原義江」の発声方法は、オペラ歌手のようなもので、到底私らには真似が出来ませんでしたね。此の「義江」と云う名前は、最初は女性かと思っていましたよ。この頃はテレビなんか無い時代ですから、滅多にお目にかかれませんから、声は聞いても姿は見られませんでした。
「藤原義江」は山口県下関出身、明治31年12月5日生まれで父はイギリス人、明治学院卒業し、新国劇・浅草オペラを経て大正9年にイタリアに留学して、欧米各地で演奏活動を続けました。帰国後昭和9年に「藤原歌劇団」を創設して、日本のオペラ活動の推進役となったのです。我らのテナーと呼ばれました。昭和51年3月22日没。享年77歳でした。