[99]津山の大殺戮事件

2019年3月21日

第99回
■津山の大殺戮事件
此の事件は、昭和13年5月21日夜1時に岡山県苫田郡西加茂村で起きたのです。これは主人公の父親が村で起こしたとされる大殺戮事件で、「津山の30人殺し」と云われるものです。
昭和13年は淡谷のり子が「雨のブルース」を唄った頃です。
♪  雨よふれふれ  なやみを流すまで
どうせ涙に   濡れつつ
夜毎なげく身は ああ 帰り来ぬ
心の青空    すすり泣く夜の雨よ  ♪
此の事件は東京朝日新聞に大々的に報道されました。当時としては四段ぶち抜きで、日本軍が徐州入城で大特集を組んでいる最中に大きな特集を組んでいたのです。其の記事は「三十二名を殺す、失恋・病苦に狂う農村青年、岡山県下の鬼熊自殺」とあります。
「鬼熊」と云うあだ名は、大正15年8月に、千葉で岩淵熊次郎と云う男が、痴情のもつれから6人を殺傷して放火し、山の中に逃亡し、時々村に降りてきては巡査を殺すなどしたため、毎日のように新聞が大騒ぎして「鬼熊」と云うあだ名を付けた事件で、これ以降大量殺人犯の事を「鬼熊」と云う様になったそうです。
此の津山の30人殺しは岡山県西加茂村の行重の貝尾集落に住む都井睦雄22才が昭和13年5月21日の深夜1時40分に事前に集落への送電線を切って、首からランプを下げてイノシシを狩るための10連発の猟銃と日本刀を手にして、貝尾集落と坂本集落の住民を次々に殺戮して、翌朝の5時に自殺した・・と云うものです。此の事件の死者は2集落で30人にも及び此の集落の住民は205人だったと云いますから、その内の30人が殺害された訳ですから大変な惨劇であった訳です。
此の集落の周辺では、頭に懐中電灯を付けて、夜中に猟をする風習があったと云いますが、都井は村の送電線を切るなどして入念な殺害準備を進めて、真夜中に両足にはゲートルを巻き、学生服で頭に懐中電灯を2本差し、首からは自転車用のランプを下げて、日本刀と猟銃を持って自宅の屋根裏からおりて来て、先ず祖母76才の首を刎ねました。続けて北の隣家に侵入してかっての夜這いの相手であった未亡人50才とその子供14才と11才を次々に刺殺、さらに別の家に侵入して、またも夜這いの相手であった家主の妻43才、また彼の夜這いの相手であった娘22才、家主50才、妻の妹22才を次々に銃殺しました。
当時岡山県下の多くの村には夜這いの風習が残っていて、都井が村民に逆恨みを抱くようになった大きな理由の一つが、此の夜這いにまつわる口さがない噂であったと云います。
続けての家では夫婦22才と20才、その甥18才を銃殺、さらに別の家で家主60才とその息子19才、娘二人15才と12才、と内妻22才を銃殺、そして又別の家の隠居所にいた老人86才を銃殺しました。
此の時点で集落は大騒ぎになっていましたが、まだ気が付かずに寝ていた家もあったそうです。高台に住んでいて都井の夜這いの相手が別の男に走った未亡人45才とその息子21才を銃殺、そして再び自宅に戻り、南の隣家で養蚕の手伝いに来ていた他家の二人の女性21才と19才を銃殺しました。たまたま同じ部屋にいた家主の息子の内妻65才も銃殺し、さらに別の家の養蚕室に居た女性47才も銃殺しました。
午前2時になってようやく加茂町の駐在に一報が入って、大騒ぎになって半鐘を乱打したり、消防団に緊急召集がかかったそうですが、都井はその時10軒目の家に乱入して、そこの妻34才、息子5才、両親74才と72才も銃殺しています。そして高台に住む村の実力者の妻56才を銃殺し、そして貝尾集落を離れて坂本集落に現れ、そこで夜這い相手の夫51才を銃殺、そして妻32才も銃殺してしまいました。
世に「津山の30人殺し」と云われた此の事件は、即死28人傷が元で死亡した人2人、重軽傷者3人で幕を閉じました。この事件で殺害されたのは、何れも都井の夜這いに関係した人達と、巻き添えを食った村人でした。都井は樽井集落の民家に忍び込んで、遺書を書くために紙と鉛筆を借りましたが、その家の子供に「勉強して偉くなれよ」と言い残して、午前5時に,仙の城山頂で猟銃自殺しました。
此の男は肺結核を患い、普段から猟銃を持って村を徘徊し、誰彼構わずに村の女性に関係を迫るなど、危険人物として警察でもマークしていたと云いますが、実際に殺された人達は殺す必要のなかった人が多かったと云います。
彼は徴兵検査でも丙種合格と云う、不合格になり、軍医からも結核と云われたので前途を悲観しての犯行だったようですが、それにしても身の毛がよだつような凄まじい事件でしたね。
徴兵検査で不合格と云うのは当時は「片輪の人間」と云われ、そして結核と云う「死病」、オマケに「色気違い」と云われれば、村人の偏見も相当に激しかったでしようね。