[97]血盟団事件

2019年3月21日

第97回
■血盟団事件
昭和に入ったばかりの時代に、どうしてこんなに血生臭い事件が多発してしまったのでしょうか? 矢張り政治に原因があったようですね。世の中はこんな事件があったことを知らなかったように、こんな唄が流行っていました。四家文子が唄った「銀座の柳」です。
♪ 植えてうれしい 銀座の柳
江戸の名残の  うすみどり
吹けよ春風   紅傘日傘
今日もくるくる 人通り    ♪
事件は昭和7年2月9日に起きました。先に狙撃されて其の傷が原因で死亡した浜口首相の親戚に当たる大蔵大臣の井上準之助が、民政党候補の駒井重次を応援のため、本郷区の駒本小学校に車で乗り付けて降りた所へ、出迎えの群衆の中から一人の男が飛び出して来て、井上蔵相の脇の下にピストル1発を発射、そして腰にも押しつけて2発目を発射したと云います。
直ぐに井上蔵相は帝大病院に運ばれましたが、車中で午後8時15分に息を引き取ったと云います。会場へ到着してから僅か11分の惨劇でした。犯人は茨城県平磯町出身の小沼正22才で、その場で群衆のステッキなどで殴られる等して警官に引き渡されたそうです。
此の井上準之助と云う人を失った民政党は大打撃を受けたそうで、次の首相と目されていたらしく、高橋是清が此の死を深く嘆いたと云います。此の高橋是清も後に暗殺されています。
犯人の小沼は日本国民党の寺田稲次郎の家に住んで居たと云いますが、此の寺田と云う男は「大杉栄」の遺骨奪取事件に関わり、高田早苗早稲田大学総長に人糞を投げつけるなどのテロ行為も起こしている男です。日本国民党は昭和7年に大日本生産党と名前を変えましたが、その目的は分かりません。小沼が所持していたピストルは井上日召から渡されたものと云います。又同年3月5日に、同じ日本国民党の寺田稲次郎門下の茨城県前渡村出身の菱沼五郎21才が、三井銀行の三越よりの歩道で下車した三井合名会社理事長の団琢磨男爵73才を黒オーバー黒背広の姿で襲い、団琢磨はピストルで右胸を撃たれ、三井銀行の医務室に運ばれたが、午後0時20分に死亡したと云います。
此の犯人グループは、小沼、菱沼を含めて5人おり、血盟して一心同体を誓い合っていたと云います。小沼と菱沼は何れも郷里茨城にあると睨んだ警察が、二人の卒業した南浜小学校に古内と云う教師が居て、血盟5人組が全員此の古内をひどく尊敬していたし、古内の自宅へ夜学にも通っていた事を突き止めたそうです。さらに昭和4年には古内と小沼、菱沼らは大洗の日蓮宗護国堂の井上日召からも影響を受けていた事も分かったと云います。小沼が事件前夜に泊まっていた家は井上日召の妻が仮名で住んでいた家だそうです。
昭和7年3月代々木上原の空き家に潜伏していた古内栄司32才は逮捕されました。古内は菱沼にピストルを渡していたと云います。古内は鈴木善一に共鳴して、既成政党打破や財閥倒壊などを目指していたと云います。又同じ日に渋谷の隠れ家に潜んでいた井上日召43才も警視庁に自首して逮捕されたと云います。
此の井上日召は日蓮宗の坊さんでありながら國家主義に傾斜して、茨城の農村の青年を集めて「一人一殺」で要人の暗殺を企らんでいたと云います。結局此の一連の「血盟団」事件は東京組、茨城組、京都組の13人が逮捕されましたが、井上、小沼、菱沼は無期懲役となりましたが、仮出所後の彼らは生涯右翼活動を続けていたと云います。
また井上日召は東洋陽明學の大家で学者であった安岡正篤と云う人が生涯を掛けた膨大な著書や研究所や学校などで教えていたとされており、政界、財界の大物はすべて影響されたと云う程の人物と云われて居ます。
その内の「金鶏学院」に此の井上日召もコンタクトがあったと云われますが、安岡先生は血盟団には関係はなかったようですが、戦後はGHQから公職追放にあったようです。此の先生は明治31年生まれだそうですが、86才で亡くなる直前に、銀座のバーのマダムだった占い師の細木数子に前代未聞の「結婚誓約書」なるものを書かされ、二ヶ月後に亡くなった後に其の誓約書で役所に婚姻届を出したそうです。安岡先生の亡くなった時は当時の元、岸信介総理ほか中曽根首相や政界、財界の人達が青山斎場に2000人も集まったそうです。
井上日召は昭和15年に仮出所し、昭和20年に自殺した元総理の近衛文麿の家の裏庭に住んで、影のブレーンを演じていたと云われ、戦後は護国団を結成して右翼運動を続けて昭和42年3月に死亡したと云われています。
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