[71]目黒もらい子殺し(2)

2019年3月21日

第71回
■目黒もらい子殺し(2)
前号より続き
川俣は栃木の佐野の出身で、父はテキ屋上がりの医薬師で、佐野に居るときは看護婦ばかりを籠絡しては別れると云う生活を繰り返し、その後看護婦と結婚したが川俣の女遊びの激しさを苦にした妻は自殺したと云います。
最初の犯罪は昭和3年に荏原から生後40日くらいの女児をもらい受けて持参金50円を着服して女児ほ絞殺し、向島の立石のどぶ川に捨てて逮捕され、懲役4年。そして昭和6年8日に出所して職を転々としていたと云います。
そして昭和7年にはもらい子殺しをして4500円稼いだら満州か北海道に高飛びするので、発覚しないように浅草観音に祈願したと云います。この時点で9人殺害したと警察で「商売のつもりでやっていた」と平然とした態度で語っていたと云います。
昭和8年3月12日、死体を埋めた場所をウソの供述をされた警察が峻烈な取り調べをして、ようやく「死体は西郷侯爵邸の裏庭の熊笹の中に埋めた」との自供を引だしたので、そこで発掘したところ何と16人の死体が見つかったと云います。先の木賃宿の1人を加えると17人となりました。男児8人女児6人の他は腐乱が酷く判別出来なかったそうです。
又15日に発掘を再開したところ、新たに8人の死体が見つかり、全部で25人になり、見物人も300人にもなり、おでん屋や甘酒屋まで出る始末。殺害された子達は恵まれない環境の子ばかりで、親の勝手でもらい子に出された子が殆どでした。
西郷山の現場には地蔵が建てられたそうですが、18日には撤去されたそうです。花束を5銭で売ったり、ニセの賽銭箱を置いたりする便乗商売が続いたからだそうです。
此の事件にはまだ尾ひれが付いていました。もらい子を渡した産婆の中でも悪質な者もいて、80円でもらい子を預かり、それを川俣に5円を付けて渡していたりして、産室設置の取り消し処分となった。
又、吾嬬第四小学校の代用教員28才は、仕事の後に浅草公園や隅田公園で風体の良い男を捕まえて自分のアパートに連れ込み売春していたと云います。その際男から名刺を貰い、それを使って川俣は恐喝をしていたと云い、50人も被害に遭っていたと云います。
此の女教師も元々は結婚する相手がいたが、銀座のサラリーマンと思って居たが、ルンペンだったことが分かり、揉めている所に川俣が現れたのだそうです。
後日談ですが、此の頃は貰い子殺しは頻繁に起きていたようです。早速昭和8年5月には「川俣2世」が出現しています。砂町署は亀戸町の小口実夫34才を車強盗で逮捕したが、自供によって自宅の床下に貰い子5人を殺して埋めたと云います。内妻24才は知らないと云っていたが、床下から死体が出て来たと云います。これで小口は「川俣2世」と云われたそうです。
此の川俣にしても小口にしても今生きていれば百才を超えているでしょうから、生きているとは思えませんが、どう云う人生を送ったのでしょうね。このような底辺の人間もこの世に居て、「人面獣心」と云う者は何時の世にも存在します。情けないですねぇ。
此のもらい子殺し事件は昭和23年にもの凄い大量な殺戮事件が発生していますが、大分後のことなので又書くことにします。
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