[127]徳山 璉(とくやま たまき)
第127回
■徳山 璉(とくやま たまき)
徳山漣は明治36年7月27日に神奈川県藤沢市の医師徳山正治と母ノブの子として生まれました。東京音楽学校の出身のバリトン歌手で、昭和6年に「サムライ・ニッポン」でデビュー、通称”クマさん”と云ってユーモリストであったと云います。
チョビ髭を生やした姿は年よりも少し老けた感じですが、その歌いぶりは朗々と歌ってファンも多くいました。昭和11年4月には東宝映画で「古川禄波」と競演して「唄う弥次喜多」に出演して「喜多さん」役を務めています。
「サムライ・ニッポン」昭和6年
♪ 人を斬るのが 侍ならば
恋の未練が なぜ斬れぬ
伸びた月代 さびしく撫でて
新納鶴千代 にが笑い ♪
この歌は#4まであります。そして昭和7年には「満州行進曲」も唄っています。昭和12年には藤沢の医師であった父親の正治氏が亡くなったそうです。明治元年生まれだそうですから享年69歳になります。
支那事変の起きた翌年の昭和13年3月には支那華北に慰問に出かけて、前に述べた「涙の渡り鳥」を歌った小林千代子と同行して、早大野球部監督の木下常吉と逢っています。此の華北に慰問に行った時は作曲家の「中山晋平」も同行していました。
丁度戦争が始まって、世の中が騒然としてきた頃、この歌は忘れられない歌となりました。それは「隣組」と云う歌です。
「隣 組」(昭和15年)
♪ とんとんとんからりと 隣組
格子をあければ 顔なじみ
まわしてちょうだい 回覧板
知らせられたり 知らせたり ♪
毎日毎晩ひっきりなしにJOAK(NHK)が放送していました。此の歌は#4までありますが、実生活の上でも正に「隣組」は出来ていました。近所の住人、大体10所帯単位くらいで結成されていたようです。毎日のように回覧板が来ていましたし、それを次の家に届けるのが子供の役目でした。
昭和16年には愛国歌の重鎮として「戦陣訓の歌」をレコーディングし、そして「歩くうた」を世に送り出しました。ラジオ放送にも出演して、どっしりと腹の底から出すような歌い方で聴取者を魅了せずにはおかなかったと云います。
しかし、昭和17年1月28日に、これからと云う時に僅か38歳と云う若さで、父の後を追うかのように此の世を去りました。訃報を聞いた「古川禄波」は涙ながらに大騒ぎをしたと伝えられています。