[18]越えられた、シーソー

私の知りうるかぎり、男女は競い合っている。いや、男女が競い合っているというより、男の枠として生まれた者、あるいは女の枠として生まれた者が自分のために腐心している。
醜くはあるが、どうにかなるものでもない。自分で自分のことを素晴らしいとはさすがに言えなくとも、自分の性なら褒めることができる。あるいは、けなすことができる。男女の枠のことであれば、それが自分の損得であっても、他人のためと言える。
男女は、本当に仲良くなれるだろうか?
当然ながら、醜い争いの反対は、互いへの尊敬となる。男女の間でもそうなればそれにこしたことはないが、実現可能だろうか?
この問いは、世界に持続的な平和がおとずれるか否かの問いと同質のものだ。なぜ、こうも人類はあくなき戦争をつづけるのか? というものだ。
これは、しごく簡単だ。あくなき戦争をつづけるのではなく、人類が戦争を必要としているからつづいているだけのことだ。もし人類が戦争での学びを必要としなくなれば、戦争は意味がなくなるだろう。
ただし、そんなことを考える必要はない。あなたは、あなたのことだけを考えていればいい。だって、戦争だの世界平和だのということは、あなたの問題ではない。そんなことは放っておけばいい。
それより、あなたが戦争を必要としなくなったら、あなたの心に永遠の平和がおとずれるだろう。それだけのことなんだから。
が、実際はそうもいかないね。日本は戦争だらけだ。戦争とおなじエネルギーがつねに使われている。
犯罪者を裁くのをみたまえ。彼らは、被害者から復讐を受け、社会からは排除されている。これを戦争といわず、なにを戦争というね。
戦争を起こす根本はなにかね。その根っこはどこにあるね。
思想、宗教、反道徳、それに利害関係・・・。そして、人の醜いものを動かすより根本をさぐってみるのだ。
憎悪であり、復讐であり、貪欲さではなかったかね。戦争をつづけるためには、これらの負の連鎖なしには考えられない。肉親や友人、土地を奪われたことへの復讐がかかせない。それがなければ、長続きはしないものだよ。
犯罪者への裁きも、つかっているエネルギーはおなじものだよ。今の社会は、犯罪者を更生させようとするものでなく、単なる復讐だ。このことを忘れてはならないよ。
平和を乱すものとは利害であり、怒りであり、復讐であり、執着である。これらのエネルギーによって人が支配されないかぎり、持続的な争いには発展しないよ。が、あなたが許せば許すほど、受け入れれば受け入れるほど、平和はちかづいてくる。
イエス・キリストをみるといい。イエスは、自分を十字架にかけようとしていた者のためにさえ祝福をおくることができたと云われている。自分を殺そうとしている者のために、その最中に祈っていた。
考えてみてほしい。自分や自分の家族がどのような目に遭っても、ふかい慈悲につつまれる者を、どうして他者が不幸にすることができる? 誰が、かの者の意識を乱すことができるのか?
イエスの意識は、永遠の平和をえていた。そうであれば、もはや戦争の意味はなくなる。そうであれば、男女も尊敬しあえる。むしろ、それらはもう必要としなくなるのだ。
椎名蘭太郎