[34]美優醜劣 その二

女が男を選ぶようになったのはいつ頃からだろう? これは、日本がバブルと呼ばれた1980年代からではなかったろうか。三高と銘打たれた、高学歴・高収入・高身長を、女が公然と男につきつけたのが当時であった。
結婚相手への条件に、見た目や金品を恥じらいなく声高らかに唱える風習はそれ以前にあまり見られなかったし、冷静に捉えてみても美しい考え方ではない。ただし、この考え方は、バブル以降のこの国では当然のように受けつがれるようになった。社会において、女の優位な時代が到来している。
さらに月日が経ち、1990年代にはいると、日本社会にフェミニストの考えが流行しはじめる。同時のフェミニストは、社会というものは男が作ったものであり、男の都合のいいように作られている。だからこそ、社会に洗脳されてはならない――というものだった。
当時のフェミニストの役割は重要であり、女性解放におおいに役立った。ただし今後、この考え方はとても推奨できない。なぜなら、この思想は相手を否定するために多くを用いられすぎた。
現在、この思想に影響をうけた女達は、これまでになく男への無理解とエゴを発揮させている。自分を特別だとおもっている。男の立場を理解することすら放棄してしまったかのようだ。
今後、相手の性への理解をふかめることこそ求められる。もうそろそろ、相手をけなすのではなく、自分を高めるだけでもない、たがいを認め合う風潮が出てきてもよいはずだ。
そして、これに関してイニシアティブをもちうるのは女のがわだろう。女達がその気になれば、今すぐにでも円熟味のある関係を構築することができるのだからね。
椎名蘭太郎

[33]美優醜劣 その一

女が男の真似をすると、普通、カッコイイとなるね。でも、男が女の真似をした場合はキモチワルイとなる。
これはどういうことだろうね?
美優醜劣――この言葉を辞書でしらべても見つからないだろうよ。
なにしろ造語だからね。読んで字のごとく、美しいものは優れ、醜いものは劣る――となる。
先進各国は、この美優醜劣に突入しているのではないか。男女間において、女が優位にたち、パワーが男から女へシフトしている。
そうだとすれば、どこに要因があるのだろうか。
もちろん、これまでだってパワーの所在が一定ということはありえなかった。それは確実に、気まぐれに移りかわっていった。
日本において、バブル期より以前はまだ男にパワーがあった。当時の男のパワーの拠り所は、腕力であり、武力であって、それを盾にした権力と伝統であった。
つまり、弱肉強食の要素がまだ残っていた時代とみてもいい。外見の美しさは、その次にパワーを持ちうるもので、弱肉強食の時代には腕力にかなうはずがなかった。
美しさは万人から愛されただろうが、どうしてそれだけで武力に勝れただろう? 腕力や武力をもち、それによる権力を得たならば、簡単に美しさを支配下に収められたのがそれまでの時代だった。
たが、やはりパワーの所在が一定などということはなかった。文明が発達し、法が整備され、なにより人々の思想が円熟味をおびていった。豊かになるにつれ、弱肉強食的な行為を排除する方向へとすすんでいった。
転換期となったのが、19世紀のヨーロッパだった。この地でフェミニズムの動きがみられたのだ。文明がたかまり、それによって人々が様々なことを考えるだけの余裕ができた。
このヨーロッパ文明をなくして、今の女の地位をかたることは到底できなかったはずだ。
フェミニズムをバックボーンとして、男女差別が批判されるようになり、やがて女性解放運動がさかんに行われるようになった。
日本でも女性解放のうごきがみられ、成果をおさめたが、彼女たちを支援する時代的要素を見逃してはならない。いや、そういった背景があったからこそウーマン・リブが可能となったのだ。
何者かの地位があがるときは、パワーの転換がおこっている。女のパワーが増した背景には、社会において、「平和」「安定」「豊かさ」――のキーワードがまぎれもなく関与している。これらが満たされると、女のパワーが高まるとみていい。
女は、男よりも美しい。彼女たちの美しさがもっとも発揮できるのは、動乱でも貧しさでもなく、社会が安定したときである。そのときこそ美しさが武器となり、パワーを発揮してくれる。逆に男は、不安定な動乱の時代にこそ、彼らの特徴である腕力を発揮できたわけだ。
これらの時代的背景は、男女の力関係をみるうえで、おおきな秤となってくれる。そうであるとすれば、女の地位と、社会の豊かさや平和の関係を調べてみるのも面白いだろう。
日本の昭和後半から平成にかけての時代は、まさに平和と安定、それに豊かさを享受する時代ではないかね。
椎名蘭太郎