男女をかえりみれば、女はスタンダードで、男はノンスタンダードとなる。見方をかえれば、女は基本となり、男は挑戦となる。
ひとつの円を頭に描いてみるといい。その均等な円のなかに、女はほぼ収まるが、男の場合は円の上下や左右にずれ、収まらない者がおおい。
なぜなら男とは、挑戦のタイプであるためだ。男に天才が生まれれば、愚者が生まれたりするのは、ひとえに彼らが挑戦のタイプであることによる。
子供を産む女が基本であるのに対し、足かせのない男は挑戦ができる。その挑戦の成果を子供に還元することで、遺伝子としての、あるいは人としての進化をなすカラクリがそこにある。
そこで、男は知っておくといい。
もしあなたが中心からおおきくはなれ、辺境であえぐようなことがあったら、ぜひとも中心にもどってほしい。人は常に辺境でくるしみ、「初心に返る」ことに気づく生き物だからね。
子供のころは、なんと無邪気で、なんの考えも持ち合わせていなかったものかと思いを馳せながらね。
じつに、男は挑戦するタイプであるがゆえに様々なタイプがいるよ。彼らの場合、ひとつの男というカテゴリーではまとめにくい。
優れた者もいるだろうが、最下層もまた彼らとなる。円のなかに女たちが固まれば、その円の周囲には男たちが散らばっていく。
我々は、そのことにほとんど触れやしないが、どんな時代のどのような社会でも底辺にいたのは挑戦に敗れた男たちだった。
その構図は今でも変わらない。
にもかかわらず、我々はこの社会でもっとも底辺にいる彼らに光を当てたことは一度もなかった。彼らが男であり、醜くあり、変わっていたためだ。
彼らなど、まるでそもそも存在していなかったように抹殺してきた。
人は、彼らを踏み台にしてここまできた。今も、彼らを踏み台にしている。
確かに彼らは挑戦に失敗しただろう。変わってもいるだろう。
だが、そもそも挑戦には成功と失敗がつきものだよ。失敗がなければ成功などありえなかった。彼らの栄養分をとり、人類が成長してきた歴史を忘れてはならない。
椎名蘭太郎
[41]男女の差
男女の体格差はあるべくしてある。
男は、外敵との戦闘要員であったのだから、当然、体がおおきくなる。ただ、それでも猿人や原人のころと比べれば、男女の体格差はかなりちいさくなった。
外敵と戦う機会がほとんどなくなった現在、戦う肉体は意味をなさなくなった。我々は、つねに現在に必要なかたちへと変貌をとげていく。
今でもおおきい者、背の高いものに人々は憧れるが、それは長年の弱肉強食時代につちかった、「身体能力の強さ」への憧れにほかならない。
これらの憧れは、子供っぽく野蛮ではあるが、強いほうが生き残れたんだ。当然のことじゃないか。
とはいえ、いつまでもこの状態は続かないよ。今後は省エネで、効率がよいものが好まれる。人はすぐに変われるものではないが、それほど遠くない将来は「おおきければ良い」という発想は徐々に薄らいでいくだろう。
そもそも男女の場合、いや人に限らず、原形は女の側にある。男は、女の変形タイプといっていい。遺伝子は、常に複製をつくる側に原形をおくのだ。
男は、女の複製をサポートするための存在ともいえる。遺伝子の見方にたてば、女は道具であり、男は道具の道具となる。
そもそも男は、変形であるがために、どうしても生命力が乏しくなる。不安定なのが避けられないのだ。
男が女より勝っているのは、外からの肉体的な攻撃と防御となるわけだが、それらは今ではあまり意味をなさなくなった。むしろ、
今の時代に必要な、肉体面での内なるタフさや精神的なタフさにおいては明らかに女のほうが勝っている。
肉体面や精神面で女がタフなのは、彼女たちの生命力が旺盛なためだ。もちろん、ただ強ければよいというものでもない。男は、生命力が乏しいがゆえに繊細さを持ちえたといえなくもないのだ。
また、女の肉体の特徴といえば「子宮がある」ということになる。女は男より、繊細な部分がおおいが、そのおおくに子宮に支障をきたさないための防御が関係している。
このように男女の質のひとつにさえ、そこには必ず原因があるのだ。
男女の肉体的な異なりは確かにおおきいが、その差はおそらくどの分野でも縮まっていくだろう。なぜなら、今は男女ともやることに大差がなくなってきているからね。
両者の差がなくなるのでは困るという者もおおいだろうが、男女の性差をしっかり保つなら、その目的に添うにはひとつしかない。
男女のしきたりをはっきりさせ、それにそって行動させるべきだろう。その慣習やしきたりによって、男女の性差があらわれてくるだろうからね。
現在、男女の性差がどのくらいあるにせよ、環境のちからはおおきいよ。
椎名蘭太郎