[107]五・一五事件 犬養首相暗殺
第107回
■五・一五事件 犬養首相暗殺
五・一五事件は昭和7年5月15日、大日本帝国海軍の急進派の青年将校によって起こされた反乱事件です。
武装した海軍の青年将校が、突如首相官邸に乱入して、当時の護憲運動の旗頭とも云える犬養毅内閣総理大臣を暗殺しました。この事件によって日本の政党政治は衰退しました。
時代は昭和4年の世界恐慌に端を発した大不況で、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増している最中でした。昭和6年には石原莞爾が率いる関東軍の一部が暴走して満州事変を引き起こし、政府はこれに引きずられる格好でありました。
犬養政権は金輸出禁止などの不況対策を行うことを公約して昭和7年2月の総選挙に大勝を収めました。一方で犬養は満州事変を黙認して、陸軍との関係も悪くはありませんでした。
しかし、昭和5年のロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理の若槻礼次郎に対して不満を持っていた海軍将校は、以前から若槻襲撃の機会を狙っていました。ところが民政党が大敗し、若槻内閣は退陣を余儀なくされてしまったのです。
これで事なきかと思われましたが実はそうではなかったのです。計画の中心人物であった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中國で戦死してしまったのです。此の遺言を知った仲間が事件を起こすことになってしまいました。つまり、本来ならば犬養は殺される筈ではなかったのですが、間違って殺されることになってしまったのです。
又、犬養は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校には気に入らなかったと思われます。不況以前に大正デモクラシーと云った民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級やマルクス主義など革新派はあからさまに軍縮支持、軍隊批判をしており、それが一般市民にも反映して、軍服を着て電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていたことも事実であったようです。
本事件は、二・二六事件と並んで軍人によるクーデター・テロ事件として扱われていますが、軍人の犯人は軍服を着てはいましたが、二・二六事件と違って武器は民間から調達され、また将校達も事情を知らない部下を動員している訳でもないので、その性格は大きく違うのです。
同じ軍人が起こした事件でも、実際に体制転換・権利奪取を狙って軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強いのが二・二六事件で、これに対して殺人テロの色彩が強いのが本事件でした。なお、事件当時チャップリンが来日していて、チャップリンも標的になったそうですが、直前になって標的から外されたそうです。
犯人の青年将校らは、犬養首相を見つけ次第射殺する計画であったようですが、表から官邸に入った三上隊が首相と出くわして射殺しようとしたところ、首相自ら応接室に案内して、そこで自身の考えやこれからの日本の在り方などを三上隊の将校達に聞かしていたところへ、裏から官邸に入った黒岩隊の突入によって犬養首相は銃撃されてしまい、顎とこめかみに弾丸を受けました。
高齢でしかも頭部に銃弾を浴びながらも暫くは息があって、直ぐに駆けつけた家族・側近の前で、凶弾に臥した犬養首相は「今の若造を連れて来い、俺が話をしてやるから」と言い残して絶命したと云います。「話せば分かる」「問答無用・撃て」のやりとりは有名ですが、これは犬養首相が最後に云った言葉ではないそうです。
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