[108]台湾・霧社の惨劇

2019年4月27日

第108回
■台湾・霧社の惨劇
台湾は日清戦争後に日本に割譲され、昭和20年まで日本の領土とされていました。此の台湾には新高山(にいたかやま)標高3952mと云う当時では富士山の3776mより高い山がありそれが日本一とされていました。あの日米開戦の時の暗号「ニイタカヤマノボレ一二○八」は有名ですが、当時の海軍符号表には載っていないと云いますから確証はないそうです。
戦前には「新高ドロップ」と云う缶に入った飴玉がありました。これは野坂昭如原作のアニメーションに小さな女の子「節子」が此の新高ドロップの缶を大事にし、又節子の兄が駅構内で餓死するときにも節子の遺骨の入った此のドロップの空き缶を抱えて居たと・・云う悲しい物語です。この「火垂るの墓」については又改めて書くことにします。今は「玉山」と名が変わっているそうです。
さて本題に入りますが、これは私の幼少の出来事ですから詳しくは知りませんが、大変な事件だったようです。今でも台湾に限らず世界中の国々には「原住民」と云う少数民族がいますね。その部族は自己の長い風習から逃れることは出来ないようです。
台湾は特に風土病がもの凄く、首狩り族なども住んでいて、清朝末期まで中華文明は及ばない地とされていました。日清戦争によって台湾は日本の領土とされたのですが、その時点では台湾は大変な僻地であったと云います。首狩りの文化も消えた訳でもなく、昭和2年にも台湾人の警手2人が原住民に首を狩られているそうです。
新聞には大正11年以来の珍事と書かれていたようですが、昭和に入っても未だこうした風習が残っていたと云うことです。尚、此処で云う台湾人とは、台湾在住の中國人のことです。戦前の日本ではこうした首狩りの風習があったからかも知れませんが、台湾の原住民を「蛮人」と呼んでいました。此の台湾の原住民は、タイヤル、サイセット、ブヌン、ツオウ、パイワン、アミ、ヤミ、の部族があって、昭和3年末までに730社、2万3496戸、13万9234人が居たそうです。
アミ族は此の時点ですっかり文明生活に融和し、ヤミ族とサイセット族も穏健で、ツオウ族も首狩りの風習を廃止していたようです。しかし残ったタイヤル、ブヌン族は昔のままで部族の中で殺し合いがあったと云います。そのタイヤル、ブヌン族の多く住む台中州の高原の町「霧社」で事件は起きました。昭和5年10月26日の夜、原住民800人近くが霧社付近の山奥のバーロンの駐在所を襲撃したことから始まります。
翌朝には原住民は倍の数に膨れあがり、霧社警察分室を襲撃し、倉庫から銃と弾薬を奪い、トンバラと能高の駐在所を焼き討ち。更に日本人多数を銃殺、運動会で多くの日本人が集まっていた霧社公学校で、一人の原住民が運動場に居た菅野台中州理蛮嘱託の首を突然切り落としたことに始まり、そのまま多くの原住民が刀を手に運動場で暴れて、小学生を含む日本人合わせて84人、台湾人2人が犠牲となる大虐殺が繰り広げられました。原住民の子は運動会の直前に原住民が連れ去って無事であったと云います。
霧社の日本人台湾人を救出するために日本陸軍が出動して10月29日には霧社を制圧し、建物の下などに潜って生き残っていた日本人47人を救出しました。此の暴動は色々な要素があるようですが、台中一中卒業でホーゴー蛮の花岡一郎とその父が暴動を指揮したのではないかと疑いが浮上しました。
山岳地帯を縦横無尽に駆け抜ける原住民との戦闘は苦難を極めましたが、30日には蜂起した原住民の蛮社の家々から火が上がり、いよいよ原住民側も背水の陣。その後は陸軍に味方をする原住民などの攻勢で、蜂起した原住民は追いつめられて次々に首吊り自殺を遂げ、花岡一郎は割腹自殺しました。日本側には分からなかった原住民側の本当のリーダーであったモーナルダオも自殺し、11月中にはほぼ平定されました。
原住民側の死者は685人だったとされています。花岡一郎は自殺の際に遺書を残していたと云いますが、東京朝日新聞の記者などの死体発見までには雨によって読めなく成っていたと云い、ただ「死す」と云う文字だけが判別出来たと云います。花岡一郎の横には羽織に白足袋で白粉を付けた花岡の妻、はな子の死体があり、その間には1才の息子の輝雄の死体があって、見る者の哀れを誘ったと云います。
此の事件は台湾はもとより日本国内にも此の原住民の蜂起は深刻な反響を呼びましたが、原因は原住民に対する日本の統治の失政問題が大きかったのではないかとされています。