[129]東海林太郎(しょうじたろう)昭和9年(1)

2019年3月21日

第129回
■東海林太郎(しょうじたろう)昭和9年(1)
東海林太郎は秋田市の出身ですが、此の人のクローズアップが今私の手元にある講談社発行の「日禄20世紀」の1934年(昭和9年)に載っていますので引用して書き留めます。

「泣くなよしよし ねんねしな 山の烏が啼いたとて 泣いちゃいけない ねんねしな・・・」
昭和9年2月15日、佐藤惣之助作詞、竹岡信幸作曲の「赤城の子守唄」がポリドールから発売された。歌手は東海林太郎と云う35歳の新人だった。
前年の12月23日、天皇・皇后に待望の皇太子が誕生し、國中が祝賀ムードにあふれかえった。こうした中、「赤城の子守唄」は、高田浩吉主演の「淺太郎赤城の唄」と云う松竹映画の主題歌で、明るい祝賀ムードとは反対のうら悲しい歌だったが、発売されるとたちまち爆発的な大ヒット。40万枚を売り上げて、東海林太郎も一躍、代表的な人気歌手に数えられる。
東海林太郎は、明治31年12月11日秋田市生まれ、父は秋田市庁につとめる土木技師だったが、東海林が10歳の時市庁を辞め、妻ととともに満州(中國東北部)に渡った。両親から離れ、祖母のもとで育てられた東海林は、学業はもとよりスポーツや音楽にも秀でた優秀な子どもだった。
東海林が音楽に親しむようになったのは子どもの頃からで、秋田中学に入ると、東京音楽学校のバイオリン科をめざすようになった。東海林は借りたバイオリンで練習を続け、ついには音楽学校に合格するのだが、最後に大きな難問があった。父親である。
父は名にしおう硬骨漢だった。音楽などは軟弱のきわみ、男子としては情けないと言って、まったく受け付ける余地はなく、さもなければ勘当するという始末。東海林は泣く泣く音楽学校を断念、早大商学部に入学する。在学中の彼は「ガリ勉太郎」と呼ばれるほどの勉強家で、研究科(大学院)に進み、さらに卒業後は、当時の超エリートコース、満鉄調査部に入る。東海林が満鉄ですごしたのは8年間だった。
最後は鉄嶺(瀋陽北部)図書館館長で職を辞し、昭和5年に帰国する。帰国した東海林はクラシックの音楽家をめざしたが、昭和8年「時事新報音楽コンクール」に入賞。それが歌謡界ヘ足を踏み入れるきっかけとなった。キング、後にポリドールと二つの会社の専属となった彼は、二曲目の歌として「赤城の子守唄」を吹き込むことになったのである。

以上のように記載されています。私は昭和10年に日本橋から小石川に住居が変わったのですが、思い出せば、家は小石川区宮下町に住んでいたのですが、道路を一つ挟んだ道筋の一軒家に「東海林太郎」が住んでいたことは知っていました。
続く