[139]藤山一郎(ふじやまいちろう)

2019年3月21日

第139回
■藤山一郎(ふじやまいちろう)
当時の歌謡曲・流行歌手で活躍した人ですから、この人を除くことは出来ませんね。彼の歌声は明るくて、清潔そのものの感じを受けていました。作曲家の「古賀政男」とのコンビの歌を沢山歌っていましたが、戦時中であっても、なんとなく元気が出ると云う感じでした。丁度私が子供の頃は、何処に行っても聞こえて来るのは此の歌声でした。
何時かはハッキリしませんが、一家で夜の銀座方面に行ったことがありました。円タクに乗っていた時に、賑やかな町中で何処からか聞こえてきた歌声を覚えて居ます。それは「藤山一郎」が唄っている「東京ラプソディ」でした。
『東京ラプソディ』昭和11年

  ♪ 花咲き花散る宵も
    銀座の柳の下で
    待つは 君ひとり君ひとり
    逢えば行く ティールーム
    楽し都 恋の都
    夢のパラダイスよ 花の東京  ♪

此の歌は#4までありますが、非常に軽快なリズムでした。
余談ですが、この頃の円タクは箱形のフォードが殆どで、客室には三人掛けでしたが、運転手の背もたれに二つの引き手の付いたものがあって、それを引くと小さな椅子になるんです。子供達はそこに座ります。つまり家族五人くらいは向き合って座る形です。夜の銀座通りを此の円タクに乗っていた時に「東京ラプソディ」の歌声を聞いたことが忘れられませんね。
彼は明治44年4月8日に東京日本橋蛎殻町のモスリン問屋「近江屋」に兄弟五人の末っ子として生まれました。本名は増永丈夫と云い、父は増永信三郎、母はゆうと云いました。幼児の頃は近くの東華幼稚園に入園したそうですが、すごい腕白小僧であったらしく女子師範学校の付属幼稚園に転入させられたそうですが、ここで姉さんの縁で知り合った日本女子音楽学校に毎日通って、音楽教養の基礎を身に付けたと云います。
そしてその後に慶応義塾幼稚舎に入学して一時童謡歌手としてレコードにも吹き込んだようです。そしてその後慶応義塾普通部に進学しましたが、同級生の中にあの有名な画家の「岡本太郎」もいたそうです。だが卒業の成績は52人の中で51番目だったそうですが、ビリの52番目は「岡本太郎」だったと云います。これを見ても学校の成績なんかは実社会では何の足しにもならないようですね。
彼は中学3年の頃から歌手を志したと云います。そして昭和6年から日本コロムビアから歌手デビューしました。そして沢山の歌を世に送り出しましたが、何と言っても忘れられない歌はこれですね。
  『酒は涙か溜息か』昭和6年

(1) ♪ 酒は涙か ためいきか
    こころのうさの 捨てどころ  ♪
(2) ♪ とおいえにしの かの人に
    夜毎の夢の 切なさよ     ♪
(3) ♪ 酒は涙か ためいきか
    かなしい恋の 捨てどころ   ♪
(4) ♪ 忘れた筈の かの人に
    のこる心を なんとしょう   ♪

では此処で「藤山一郎」の代表的な曲を列記しておきます。ご存じの方は口ずさんで下さい。
「酒は涙か溜息か」昭和6年、「キャンプ小唄」昭和6年、「丘を越えて」昭和6年、「影を慕いて」昭和7年、「燃える御神火」昭和8年、「僕の青春」昭和8年、「東京ラプソディ」昭和11年、「回想譜」昭和11年、「東京娘」昭和11年、「青い背広で」昭和12年、「青春日記」昭和12年、「白虎隊」昭和12年、男の純情」昭和13年・・
まだまだ続きますが、此処で此の「男の純情」の歌詞を書いて置きます。これは好きな歌でしたから・・
  『男の純情』昭和13年

  ♪ 男いのちの 純情は
    燃えてかがやく 金の星
    夜の都の 大空に
    曇る涙を 誰が知ろ  ♪

此の歌は#3までありますが、正に私達の青春の歌でした。
「上海夜曲」昭和14年、「なつかしの歌声」昭和15年、「春よいづこ」昭和15年・・この辺から歌謡曲も戦時色が強くなりました。
「空の勇士」昭和15年、「燃ゆる大空」昭和15年、「出せ一億の底力」昭和16年、「崑崙越えて」昭和16年・・ここから戦後になります。
「銀座セレナーデ」昭和21年、「三日月娘」昭和22年、「白鳥の歌」昭和22年、「夢淡き東京」昭和22年、「浅草の唄」昭和22年、「青い山脈」昭和24年、「長崎の鐘」昭和24年、「花の素顔」昭和24年、「山のかなたに」昭和25年、「ニコライの鐘」昭和26年、「丘は花ざかり」昭和27年。
藤山一郎のエピソードは限りなくあり、生まれてから沢山の苦労を背負って来たらしいです。生家の破産で莫大な借金を背負って、又慶応義塾では上級生にリンチにあったり、戦争中には慰問団を結成して、二度も南方の激戦地で死線を突破しながら音楽活動を続けたと云います。そしてインドネシアで終戦を迎え、インドネシア解放軍、イギリス軍の捕虜になったりしましたが、昭和21年に航空母艦「葛城」に乗って復員したと云います。
帰国後もコロムビア専属歌手として活躍し、東宝映画「音楽五人男」に出演し、その主題歌である「夢淡き東京」「白鳥の歌」をヒットさせました。
こうして大活躍していましたが、私生活では自動車の趣味やゴルフにも堪能で常に家庭は円満だったようです。しかし昭和24年に肝臓膿癌を患いましたが、一応全快にしたようですが、本人は健康には人一倍気を使っていたようです。
昭和27年には日赤特別有効章、昭和33年にNHK文化賞、昭和34年には社会教育功労賞、昭和48年に紫綬褒章、昭和49年、55年に日本レコード大賞特別賞、昭和58年には勲三等瑞宝章、平成元年に優良運転者緑十字交通栄誉賞、第五回東京都文化賞などを授賞しました。
又、平成4年5月28日には歌手として「国民栄誉賞」も授章しています。
しかし、平成5年8月21日に急性心不全のために82歳の生涯を閉じました。没後「従四位」に叙せられました。