[104]総理大臣暗殺事件と未遂事件
第104回
■総理大臣暗殺事件と未遂事件
古い話ですが、大正10年11月4日に当時の首相だった「原敬」が東京駅で刺殺されました。今でも南改札口の壁に遭難現場のプレートがあります。
彼は安政3年2月9日(旧暦)盛岡本宮の生まれで、第19代の総理大臣となり、「平民宰相」と云われていました。残された中に有名な「原敬日記」があり、また死後大勲位菊花大授章が授与されています。享年は65才でした。
此の原敬首相が暗殺されたのは大正時代のお話ですが、それから10年も経たない昭和5年に今度は同じ東京駅頭で11月14日に時の首相「浜口雄幸(はまぐちおさち)」が狙撃されました。これも現場の中央通路の10番線付近の柱にプレートがあります。
この日の浜口首相は朝9時発の特急燕号で岡山で行われていた陸軍大演習に出席のため、特急発車の3分前に東京駅に車で到着し、8時58分に一等車に乗るために大勢の見送り人に囲まれて歩いていたところ、二等車の横から突然に至近距離からピストルで撃たれました。
すぐさま駅長室に運び込まれましたが首相は「男子の本懐である。時間は何時だ」と気丈な所を見せたと云います。そして運び込まれた駅長室には幣原外相や宇垣陸相も駆けつけ、首相の次男が輸血して、容態も良くなってきたので帝大の塩田外科に入院することになりました。
犯人の佐郷屋留男23才はその場で逮捕されましたが、狙撃の動機は浜口政権のロンドン海軍軍縮条約の妥結や統帥権干犯問題で民政党の政敵である政友会の猛攻撃に感化されて犯行を計画した・・と云う短絡的な考えで実行したのだそうです。
此の背後に誰か居るのではないかと思われましたが、佐郷屋は愛国社の社員であり、これにピストルを渡していた同居人の愛国社員の松木義勝31才と愛国社社長の岩田愛之助41才が逮捕されました。此の愛国社と云うのは大陸浪人の集まりで、思想性は低かったと当時の新聞は評していたと云います。
又此の事件で「輸血」が有名になって、昭和6年9月には日本橋優生病院で血の取り次ぎ商売が始まったと云いますが、それまでは自分の血液型も知らず、輸血などは大変な手間が掛かるので一般的ではなかったようです。
又佐郷屋が使ったピストルの出所は、岩田愛国社社長が事務所に置いていたものを、松木が佐郷屋に渡したようですが、元々は清朝の王族で粛親王の17番目の子の憲開の持ち物であったと云いますが、此の憲開は昭和4年8月1日に別府で日本に亡命中であった軍閥の張宗昌に誤って射殺されたと云います。
此の佐郷屋と云う者が首相を狙撃する動機となった「統帥権干犯」とは、他国との条約締結は天皇が持つ統帥権のことで、天皇の許可を得ずして条約を締結すると云う行為を「統帥権干犯」と云います。
此の統帥権の問題では政友会(総裁は犬養毅=5.15事件で暗殺された)が軍部に近く、民政党はその反対でしたが、統帥権の問題は治安維持法の改訂や日本軍の山東出兵、日本政府の満州の張学良政権への介入、張作霖(此の件は後述)爆殺事件の情報公開の是非などを巡って超タカ派の政友会と対立していました。また、蒋介石の中國統一政権にも民政党は支持していたが政友会の外交は内政干渉だと非難していたと云います。
浜口首相は昭和6年1月に退院しましたが、政友会の鳩山一郎(現、鳩山兄弟衆議院議員の祖父)は首相の臨時代理ではダメだと浜口首相の衆議院登壇を要求したそうです。そして浜口首相は3月10日に衆議院、11日に貴族院に出席しましたが、ひどく疲れた様子だったと云います。
18日に再び衆議院本会議に出ましたが遅れて出たので、政友会から「何故遅れた、弁明しろ」とヤジが飛び、鳩山一郎に至っては「病気の首相の登院とは議会否認も同様」などと散々に病身の浜口首相を嘲弄したと云います。
結局浜口首相は4月4日に再入院し、5日に手術が行われましたが、13日に首相を辞職。6月28日に退院しましたが8月26日に腸閉塞で死去しました。享年61才でした。
浜口首相は明治3年高知の生まれ、東京帝大から大蔵省に入り、大正4年に衆議院議員となり、昭和2年5月の民政党結成で総裁となり、昭和4年7月に首相に就任しました。そしてその風貌から「ライオン宰相」とあだ名されていたようです。