自分の意志によって行動していると思うことでも、実際はそうでないことがおおい。
「意志あるところに道が開ける」というが、「意志なきところに道が開ける」としたほうが確かかもしれない。
男は、男らしくならなくてはならない。社会は、ずっとこのように説いてきた。男として生まれたからには、男らしく振舞わなくてはならない、というのだ。半分だけの、檻のなかに入れと。
バカバカしい話だが、彼らは意識的に手錠をかけていく。無邪気に泣くことも、笑うこともできず、それで本当に幸せかね?心に嘘をついて強がり、寡黙と呼ばれることがあなたたちの目的かね?男らしさの檻のために、どこまで自分を売り飛ばせば気がすむのかね?
自分を取りもどしたいなら、幸せを得たいなら、無邪気でありなさい。笑いなさい。泣きなさい。怒りなさい。自己表現をしっかりなさい。
あなたがたのいう強さというものが、本物であるならば、無邪気な自己表現をすることもできるはずだ。
いや、ちがう。彼らはできやしない。偽者の強さにへばりつくあまり、真の強さをうしなっている。
彼らは、寡黙になっていく。活動的であることが特徴のはずの彼らが、大人しく、元気がない。抑えつけられている。檻のなかに繋がれ、孤独のなかで枯れていくばかりだ。
女は、解放がすすんでいる。精神解放はなされようとしている。放たれたのだ。今更、女が一歩さがって男についていくかね。黙って、家庭を守るかね。
そんなわけがない。彼女たちは選択権を得ている。自分の好きな道をえらぶだけの、権利を勝ちえたのだ。
男はどうするね。今後とも、過去の亡霊にとらわれて、憑依されたまま生きつづけるかね。女にへつらい、ご機嫌をとりつつも。女は、男が脇役でいてくれることを願っている。自分を際立たせるための都合のよい存在でいてくれたほうが、ありがたいに決まっている。かつて男が、女を都合よくしたように。
笑うときは笑うがいい。泣きたいのを堪えたいなら、堪えればよいだけだ。大事なのは、時々で、選択権をもちうることだ。男だからといって、なぜ言動を強制されなければならないかね。それより、男女に縛られない、自由が欲しいとは思わないのかね。
権利は、主張しなければ勝ちえることはできない。真の強さをもたなければ、けっして手にすることはない。
椎名蘭太郎