私はこれまでなにをしてきたのだろう?
この世の出来事には、すべて意味があるという。
そうかもしれない。そう思えるなら、確かにそうなるだろう。裏をかえせば、すべての出来事には意味がないともいえる。
我々が、男であり女であることにも重要な意味が隠されているだろうか?
そのなかに、その別けられたもののなかにさえ・・・。
じっくり考えてみてほしい。
男と女はシーソーだ。絶えまなく動くそれ、軽やかに、そしてときおり烈火のごとく動くそれ。
シーソーは動く。
人知れず動きゆく。
あなたは男として在るか、女として在るだろう。
でも、そんなのはどっちだってかまわないよ。男と女の二つが、一つの連動となり、世界の螺旋をえがいている――人の体をつくりだす設計図とおなじよう、うつくしくも儚い物語として。
意識はアップダウンを繰り返し、螺旋をえがきつつ、とびとびに上昇・下降する。
我々の意識は波のようなものだ。昇ったあとは、かならず下降し、下降したら昇るしかない。波のようにアップダウンを繰り返し、ぐるぐるまわって螺旋をえがきつつ、エネルギーを放出したり蓄えたりする。
ただし、意識レベルが上昇・下降するのは、とびとびにだ。
エネルギーが1.00であろうと、1.99であろうと、レベル1にはちがいない。
2レベルではない。
エネルギーが2.00になってこそ、初めてあなたの意識レベルは飛躍する。我々が、ときおり突如として飛躍をかんじるのは、エネルギーの蓄積によって1から2となり、2から3になっているためだ。
飛躍は一気にくる。ドミノが倒されるようにね。それこそがブレークスルーと云われるものだ。
それにしても、我々はなんという年月を費やしてきたのだろう。その過程で、どれほどもがき苦しんだろう。
もちろん、苦しんだのはあなただけじゃなかった。すべての生命が苦しんできた。
今、この時も、苦しみの最中で途方にくれるものがいる。
どうして?
我々はシーソーに揺られてきた。
あるときは強さを求め、別のときは正義をもとめ、またときには愛を、異性をもとめてきた。そのたびに、打ちひしがれなければならなかった。
喜びと悲しみが、シーソーのように繰り返しおとずれた。
男女も、人生も、それはドラマだった。
幾度となく繰り返されるドラマだ。終わりのない、ゴールのみえない旅だった。
これらの物語は、一つのもののために、ただそれだけのもののために繰り返されてきた。ひとえに、恋焦がれるまでの、思いだけがそこにあった。それが原動力だった。
すべてのことに意味があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいい。それらはシーソーだった。そして今、シーソーを知り、理解しさえすれば、それは越えられるものであることを学ぼうとしている。
椎名蘭太郎
カテゴリー: 男と女のシーソーゲーム-椎名蘭太郎-
男の世界は終焉したのか?それとも一時的なものなのか?人類が生まれ、男と女が存在し、何万年もの間繰り返してきた男と女のシーソーゲーム。椎名蘭太郎が語る男の精神解放と女の駆け引き、そして本当の男女のあり方。
[16]男女兼備
男女のかたちは、今後どうなると思うね?
今と変わらないかね?
きっと、そうではないと思うよ。そのようなことは、これまでに一度もなかったんだから。男女のかたちが固まるなど、どうしてありえよう?
今後の人々は、男女兼備となるよ。男女が肉体的には変わらなかったとしても、中身は男女両方を求めるようになるね。
これは、想像でも予想でもないよ。そうならざるをえないんだよ。環境がそうさせるんだもの。
かつての人々は、環境によって男女の役割を発明してきた。それが、男女のらしさ――ということになった。でも、決して一人が男女を演じようとはしなかった。
なぜ?
そこに理由などあるかね?
そうじゃないよ。簡単なことだよ。それだけの余裕がなかったんだ。
他人を援助したり動物を愛護したりすることが、この頃の流行となっているね。でも、どうやったら昔の人にそんなことができる?
今日、生きることしか考えられなかった時代に、犬に服をきせ、募金活動ができると思う?
かつての男女に役割ができたのは、冗談でやっていたことではなかったんだよ。それが生きぬく術だったんだから。
そして、時は流れていった。あなたがたは充分なゆとりを持った。きびしい時代とはちがう、今のゆとりの時代を――。
人々は、男女兼備にならざるをえないよ。
やさしいが弱い人間が、強くなりたいと思うことに問題があるかね?
それとも、強いが自分勝手な人間が、おもいやりを持ちたいと思ってはいけないのかね?
かつて男は強く、女は美しくあらねばならなかった。男が美しく、女が強ければ人々から爪弾きにされた。
どうかね?
昔は、半円で生きることしか許されず、むしろ半円で生きることのほうが効率的で賢い生きかただった。
でも、変わったんだ。状況は、おおきく変わった。
あなたがたには余裕がある。円になれるだけの環境がととのいつつある。
偶然、環境がととのったのでなく、あなたがたの意識レベルがそれに耐えられるだけの能力をもったということさ。
となれば、誰にいわれるでもなく、いずれ円を目指すだろう。円のほうが可能性があり、才能を発揮できる。なにより、男女兼備のほうが魅力的に決まっている。色に七色あれば、七つとも備えていたほうが人は魅力を感じるものだからね。
どちらにせよ、そこには人の思惑など及ばない働きというものがある。男女それぞれへの思いがいかにあろうともね・・・。そして自然沙汰のちからは、環境に適したものを冷徹に選択しつづける。
となれば、ちかい将来は決まったようなものだろう。
椎名蘭太郎