[11]シーソーワールド

男と女は、シーソーのなかで動いている。時間も、シーソーに捕えられる。世界はまるで、シーソーによって弄ばれる、あやつり人形のようだ。
ほら、時間をみてごらんよ。私たちが時代と呼ぶものを――。
時は、人以外につうじやしないよ。だってこれは、人が編み出した便宜上の道具でしかないんだから。人以下にも、以上にもつうじるものでないよ。
植物や犬に時間の概念があるとおもうかね?
神が、時間の概念を必要とするとでも?
そんなわけがないよ。時は、たんなる概念だよ。
過去?
未来?
現在?
どこ?
時間の概念を必要とするのは人間だけ。人が時間を必要としたから、それらの概念を生みだしただけのこと。それ以下でも、以上でもない。ましてや、時の概念がうみだす時代とはいかなるものか?
男であること、女であることもおなじさ。
それを必要とするのは一定の生命だけ――。それ以下の生命も、以上もそれを必要としない。
――それは一面。無限のなかの一つ。
ある時、ある者は自信をつけ、自分のことを強くなったとおもう。でも、べつの時、その者は自信をうしない、やはり自分はただの弱虫だったとおもう。
これも変わりやしない。単なるシーソーさ。
確かに、あなたは強くなったり弱くなったりする。時間とともに、シーソーのなかを揺れ動いてきただろう。
でも、それは確かかね?
本当にあなたは強くなったり弱くなったりしたかね?
――それは一面。あなたのなかの無限のなかの一つ。
シーソーの片方に強さがあり、もう片方に弱さがある。それらは、とりとめなく行ったり来たりする。
一面に執着すると、その一面がかずおおく発生するが、それでも一面であることに変わりはない。
シーソーは、つねに揺れ動いているが、あなたがあなたであることにちがいはない。
問題は、一面を自分の本質とかんちがいするところにある。
よく見てごらんよ。ほら、じっくり観察するんだ。
シーソーには、特徴的な動きがあるだろう?
その動きをじっと追っていくんだ。
たとえば男女。
男女を、シーソーの片方ずつに配置してみる。あなたも、どちらか片方の存在だ。男女の二つがあってこそ、シーソーは成立するんだから。
でも、実際はそうじゃないよ。だって、あなたは一人で成立させているじゃない?
人類の男女のことじゃないよ。あなた個人のことだよ。
シーソーは他でもない、人の心のなかで起こりうる現象にもかかわらずだよ。
そこにはカラクリがあるだけなんだ。
あなたに強さがあるかぎり、おなじぶんだけ弱さが生まれる。これはどうにもならない。作用・反作用の単純な計算式なんだから。
そして、もしあなたが男の極に行きつくとき、次にむかうは女しかない。女に行きついたら、男に移るしかない。
だって、どこに行くね?
シーソーは二つしかないんだよ。
どうかね?
シーソーは、二つの極を行ったり来たりする。でも、どちらの極にあろうとおなじこと。私たちは、男女を経験せざるをえない。シーソーに揺り動かされながら経験する。シーソーの原理からいえば、経験することに意義がある。シーソーそのものが、かけがえのない一面だったんだ。
椎名蘭太郎

[10]遺伝子への隷属

人は、遺伝子の支配からのがれられない。遺伝子と人との関係には、まぎれもない上下関係がある。遺伝子が主であり、あなたがたの意志がそれへの従となる。
生物は、遺伝子の要求に背くことができない。生物の頂点にたつ人間も、その点においてまったくの無力だ。遺伝子の目的は、自らを大量かつ持続的にコピーすることにある。あまり大量にコピーしすぎると、むしろ戦略的に破綻することを遺伝子は学んだ。逆に、少なすぎても持続的に存続できない。これらのバランスを学びながら、遺伝子はあなたたちを操作してきた。人がエゴイストなのは、あなたたちの主である遺伝子の性質を反映しているに過ぎない。
生物は、大量かつ持続的にコピーしようとする遺伝子の要求にしたがって動いている。男女と呼ばれるものも、遺伝子の発明品の一つだ。
かつて地球上の環境に、二つのタイプが生まれた。これを洗練させて登場したのが男女だった。この二つのタイプがそれぞれの役割を担うことによって、男女の質のちがいが明確となり、ユニークさを増していった。両者の質のちがいを挙げるなら、男は広く浅く、女は狭く深くとなる。これらは、両者が環境に対応することによって特徴づけられた。男は、食料の確保をはかるため、外の世界に挑戦しなければならなかった。となれば、視野が広くなる。広くなれば、浅くならざるを得ない。深くほりさげられるはずがない。一方、女は子供を産み、家を守る。守備範囲は一定であり、狭いがゆえにその範囲において深くなった。それだけのことだ。
これらは、愛をみればよく分かる。女は、一人の者を深く愛することができるが、全体への愛に目をむけることができない。逆に男は、全体への愛に目をむけることはできるが、けっして深いものではない。セックスにしても、女のオルガニズムは深く、男のそれは浅い。
両者の質のちがいは、環境によって生まれたもの――。女は狭い範囲で暮すために、より緊密なコミュニケーションが不可欠となる。つまり、彼女たちは日頃からよく顔をあわす者とのコミュニケーションを重視せざるをえない。これに対して男は、外へいく。外の世界で気をつけるべきことは、物理反応となる。これが、女は人とのコミュニケーションを重視し、男が物理反応に意識をむけるゆえんだ。
考えてみて欲しい。なぜ、男女の役割分担がはっきりした方が有利であったかを。これは、実に簡単だ。効率だけの問題なのだ。一方が遺伝子をのこすため、もう一方が食料を確保するための専門となる。それぞれが、専門的になったほうが効率的に決まっている。では、三つのタイプができればもっと効率的でないかと考えるだろう。それはそうかもしれない。が、三角関係はむずかしい。自然は、シンプルで分かりやすい形を望んでいる。男女に善悪、陰陽など――これらはしごく単純であって分かりやすい。
遺伝子は、環境の変化によって戦略を次々にかえてきた。が、いくら変えようとも、その目的は大量かつ持続的なコピーにある。人は、嬉しかろうが悲しかろうが、遺伝子によって変わっていく。あなたの細胞の一つ一つには、その遺伝子の要求が刻み込まれている。どうして逆らえよう?そして、遺伝子の最大の武器はなんといってもセックスだ。セックスは、ドラッグなみの快感をあたえてくれる。もし、セックスに快感がともなわなかったら、あなたがたは子孫を残すかね?そんなわけがない。生物はとっくに滅んでいたよ。誰が、快感なしにそんな労力をつかうかね。
それでも人は、確かに遺伝子を超えることができる。遺伝子を完全に理解しさえすれば・・・。どちらにせよ、我々は遺伝子の道具であることを忘れてはならない。
椎名蘭太郎