[10]遺伝子への隷属

人は、遺伝子の支配からのがれられない。遺伝子と人との関係には、まぎれもない上下関係がある。遺伝子が主であり、あなたがたの意志がそれへの従となる。
生物は、遺伝子の要求に背くことができない。生物の頂点にたつ人間も、その点においてまったくの無力だ。遺伝子の目的は、自らを大量かつ持続的にコピーすることにある。あまり大量にコピーしすぎると、むしろ戦略的に破綻することを遺伝子は学んだ。逆に、少なすぎても持続的に存続できない。これらのバランスを学びながら、遺伝子はあなたたちを操作してきた。人がエゴイストなのは、あなたたちの主である遺伝子の性質を反映しているに過ぎない。
生物は、大量かつ持続的にコピーしようとする遺伝子の要求にしたがって動いている。男女と呼ばれるものも、遺伝子の発明品の一つだ。
かつて地球上の環境に、二つのタイプが生まれた。これを洗練させて登場したのが男女だった。この二つのタイプがそれぞれの役割を担うことによって、男女の質のちがいが明確となり、ユニークさを増していった。両者の質のちがいを挙げるなら、男は広く浅く、女は狭く深くとなる。これらは、両者が環境に対応することによって特徴づけられた。男は、食料の確保をはかるため、外の世界に挑戦しなければならなかった。となれば、視野が広くなる。広くなれば、浅くならざるを得ない。深くほりさげられるはずがない。一方、女は子供を産み、家を守る。守備範囲は一定であり、狭いがゆえにその範囲において深くなった。それだけのことだ。
これらは、愛をみればよく分かる。女は、一人の者を深く愛することができるが、全体への愛に目をむけることができない。逆に男は、全体への愛に目をむけることはできるが、けっして深いものではない。セックスにしても、女のオルガニズムは深く、男のそれは浅い。
両者の質のちがいは、環境によって生まれたもの――。女は狭い範囲で暮すために、より緊密なコミュニケーションが不可欠となる。つまり、彼女たちは日頃からよく顔をあわす者とのコミュニケーションを重視せざるをえない。これに対して男は、外へいく。外の世界で気をつけるべきことは、物理反応となる。これが、女は人とのコミュニケーションを重視し、男が物理反応に意識をむけるゆえんだ。
考えてみて欲しい。なぜ、男女の役割分担がはっきりした方が有利であったかを。これは、実に簡単だ。効率だけの問題なのだ。一方が遺伝子をのこすため、もう一方が食料を確保するための専門となる。それぞれが、専門的になったほうが効率的に決まっている。では、三つのタイプができればもっと効率的でないかと考えるだろう。それはそうかもしれない。が、三角関係はむずかしい。自然は、シンプルで分かりやすい形を望んでいる。男女に善悪、陰陽など――これらはしごく単純であって分かりやすい。
遺伝子は、環境の変化によって戦略を次々にかえてきた。が、いくら変えようとも、その目的は大量かつ持続的なコピーにある。人は、嬉しかろうが悲しかろうが、遺伝子によって変わっていく。あなたの細胞の一つ一つには、その遺伝子の要求が刻み込まれている。どうして逆らえよう?そして、遺伝子の最大の武器はなんといってもセックスだ。セックスは、ドラッグなみの快感をあたえてくれる。もし、セックスに快感がともなわなかったら、あなたがたは子孫を残すかね?そんなわけがない。生物はとっくに滅んでいたよ。誰が、快感なしにそんな労力をつかうかね。
それでも人は、確かに遺伝子を超えることができる。遺伝子を完全に理解しさえすれば・・・。どちらにせよ、我々は遺伝子の道具であることを忘れてはならない。
椎名蘭太郎