世の中では、女への賞賛の声が飛びかう。
母は強し。
社会を支えているのは女。
苦労を背負っているのはいつも女。
このような声が繰りかえし述べられる。
その割に、今の女は臆病でだらしない。
男が規則によって疲弊しているなら、女はぬるま湯によって軟弱になっている。
女は自立したというが、実際には自立できていない。
自立したというのは、自分の足で、自分の稼いだ金で生活することを指す。結婚して生活費を男に依存するようなら、それは親の保護から男の保護に変わっただけにすぎない。
女たちは真の自立ができていない。
男に依存するような習慣は決してあなたの役に立たない。
日本社会の財界・政界をはじめ、おおくの分野の上位でいまだに男が多数を占めているのはもはや構造的な問題だけではない。女と男の覚悟の違いによるものだ。
あなたは本気で仕事に情熱を燃やしていない。何かに依存しているのだ。教育も制度も、もはや男女のちがいがないにもかかわらず・・・。
ぬるま湯の心地よさに浸っていると、あなたは成長を放棄したことになる。
あるいは、ぬるま湯を利用しているだけ――と言うかもしれない。
だが、そんなことはありえない。利用しているつもりで利用されている。利用している――と思っている分だけあなたは利用されている。
今、女たちは更なる一歩によって、みずからのぬるま湯から立ちあがる時がきている。そのときこそ、真の女の解放がなされるだろう。基本は、自分の生活は自分でまかなうべきだ。そうすれば、男も子育てや家事に本気で取り組むだろう。
今後は、女は真の自立を、男は精神解放が課題となる。
どちらにせよ、自立したうえで自分の気持ちに素直になるべきだ。
そして、それこそ人として目指すべきものだよ。
男女にはそれぞれ課題があるが、柔軟な女たちなら、きっと私のいわんとするところに共感してくれるだろう。
椎名蘭太郎
カテゴリー: 男と女のシーソーゲーム-椎名蘭太郎-
男の世界は終焉したのか?それとも一時的なものなのか?人類が生まれ、男と女が存在し、何万年もの間繰り返してきた男と女のシーソーゲーム。椎名蘭太郎が語る男の精神解放と女の駆け引き、そして本当の男女のあり方。
[42]踏み台
男女をかえりみれば、女はスタンダードで、男はノンスタンダードとなる。見方をかえれば、女は基本となり、男は挑戦となる。
ひとつの円を頭に描いてみるといい。その均等な円のなかに、女はほぼ収まるが、男の場合は円の上下や左右にずれ、収まらない者がおおい。
なぜなら男とは、挑戦のタイプであるためだ。男に天才が生まれれば、愚者が生まれたりするのは、ひとえに彼らが挑戦のタイプであることによる。
子供を産む女が基本であるのに対し、足かせのない男は挑戦ができる。その挑戦の成果を子供に還元することで、遺伝子としての、あるいは人としての進化をなすカラクリがそこにある。
そこで、男は知っておくといい。
もしあなたが中心からおおきくはなれ、辺境であえぐようなことがあったら、ぜひとも中心にもどってほしい。人は常に辺境でくるしみ、「初心に返る」ことに気づく生き物だからね。
子供のころは、なんと無邪気で、なんの考えも持ち合わせていなかったものかと思いを馳せながらね。
じつに、男は挑戦するタイプであるがゆえに様々なタイプがいるよ。彼らの場合、ひとつの男というカテゴリーではまとめにくい。
優れた者もいるだろうが、最下層もまた彼らとなる。円のなかに女たちが固まれば、その円の周囲には男たちが散らばっていく。
我々は、そのことにほとんど触れやしないが、どんな時代のどのような社会でも底辺にいたのは挑戦に敗れた男たちだった。
その構図は今でも変わらない。
にもかかわらず、我々はこの社会でもっとも底辺にいる彼らに光を当てたことは一度もなかった。彼らが男であり、醜くあり、変わっていたためだ。
彼らなど、まるでそもそも存在していなかったように抹殺してきた。
人は、彼らを踏み台にしてここまできた。今も、彼らを踏み台にしている。
確かに彼らは挑戦に失敗しただろう。変わってもいるだろう。
だが、そもそも挑戦には成功と失敗がつきものだよ。失敗がなければ成功などありえなかった。彼らの栄養分をとり、人類が成長してきた歴史を忘れてはならない。
椎名蘭太郎