[03]男女の枠

 人には、男女という枠が毅然としてあり、それぞれを別けたがる。そしてそれは、当然の主張である。その一方で、人はうすうす感じとっている。感じとっているのだが、人はあまりそのことを言いたがらない。ならば、ここではっきり言ってあげよう。
 男女の肉体は違えど、その中身には違いがない。同じようなものである。ここまでは、本当は誰しもが知っている。では、この際だから、考え方を逆転してみてはどうだろうか?
 男女という枠がしっかりあり、両者は異なると教えられた一方、所詮、男女は変わらないとどこか感じているのがこれまでだった。これを、男女の中身は変わらないという前提のもとで、肉体は異なっているという考え方にしてみたらどうだろう。
 たいして違わないようだが、意識のうえではおおきな異なりとなる。なぜなら、初めから別のものであるという前提が崩れ、根本が同じであると考えるだけで、見る目が一気に変わる。知っていることでも、主点を切り替えるだけで逆転となりうる。
 男は男らしく――女は女らしく。
 このフレーズは、伝統的な考え方であり、陳腐に感じられることだろう。これが言わんとするところは、基礎を大切にするということにほかならない。土があってこそ、植物や動物が生きられる。しっかりと地に足をつけていられるのは、まさにこの基盤があってこそに他ならない。男という存在があり女という存在があればこそ、バランスがとれ、極に至らずに済むというふうに。
 この主張は、実際に鋭いところをついている。仮に、男女の枠を完全にとりはらうなら、訪れるのはカオスということになる。秩序を保とうにも、保つべき基盤をうしなってはどうして立っていられよう。男女は、今の日本の状況をうつす鏡でもある。日本を簡単に表現すれば、カオスと姑息ということになる。伝統的な日本文化は、すでにその主体をうしない、カオスのなかにある。秩序や基盤がないため、大事なものは金であり、見た目の美しさであり、見せかけの良いこととなる。
 人は、それらを持つものを露骨に優遇する。そこには、節度もへったくれもない。
 見た目や虚勢に頼るしかないため、言動は偽善でしめられ、偽善の道から外れないように神経をすり減らす。立派であることを示そうとするための虚勢ならまだしも、他者の目に奇妙に映らないために腐心する。これはもはや、悲劇をこえた喜劇と化している。
 が、この状態は、あるべき状態の一つでもある。となれば、残った基盤を徹底して破壊することが求められる。そうなれば、人は彷徨うしかない。そして私は、おおいに彷徨ったらよいと思っている。いずれ、カオスはやってくる。遅いか早いかの違いだけだ。飛躍のまえには、いつもカオスが待っている。おおきくジャンプできるのは、ほとんどの場合、スランプや迷いのおかげだ。人であれ歴史であれ、パターンは似たようなものだ。大事なのは、今、それを経験する時期にあるかどうかだけだ。
 男女の枠をはずす――この挑戦は、もはや逃れられない時に来ている。男は女の、女は男の領域を獲得すればよい。それを獲得したあとで、その後どうすればよいか、迷走をどのようにくぐり抜けるかを考えればよいだけである。体験してみなければ分からない。すべてを含んでいく作業と、すべてを捨てさる作業こそが、熟練度をおしあげる。勇敢に、迷いの世界に飛びこめばよい。ウーマン・リブは、成功をおさめた。マンズ・リブも、それに続けるのか。むろん、続いていくことになるだろうが・・・。
椎名蘭太郎

[02]ウーマン・リブとマンズ・リブ

 男女において、自由度はどちらが高いといえるだろうか。女の視点にたつ今では、男は身勝手な動物であり、被害をこうむるのはいつも女ということになるだろう。いわゆる、悪の元凶は男にある、という風潮である。
 おもしろいことに、昔は悪の元凶が女である、と思われていた。それも、年寄りの女が悪者にされた。
 日本の昔話では、年老いた女の妖怪がよく登場し、ヨーロッパでも魔女といえば醜い年寄りの女というイメージが強かった。人々から忌み嫌われるのは、年老いた女だった。
 自由度というのは、力関係とも一致しうる要素だ。かつて、自由な存在であったのは、まぎれもなく男の方だった。これに不満を募らせた女は、ウーマン・リブを展開させた。
 当時の女の活動家が、不平等に思ったのも無理はない。彼女たちは、男が羨ましかった。男の持つ権利を得たいという願望が、運動につながっていった。
 同じように、マンズ・リブが起こるとすれば、女への憧れと不平等感をいだくことによってだろう。だが今は、男が女に憧れたとしても素直になれず、むしろ男を非難することに転化する場合がおおい。女に嫉妬しているものの、やり場がみあたらない男がよくとる態度だ。このような表現方法は、けっして健全ではない。
 ウーマン・リブによって、女はおおくの男の領域を手にいれた。自由を得られれば、元気も得る。自由を獲得し、元気を得るためにはそれなりの代償が必要となる。
 今後、男が女の領域を獲得しようとする、マンズ・リブは、すでに微かながら動きがみられる。だが、ウーマン・リブのような大掛かりな展開にはならないだろう。昔の女のような抑圧がなく、男女の質というものも影響を及ぼしている。もちろん、男女の優遇の差がさらに開けば、マンズ・リブはそれだけ盛りあがる。ちょっとした、社会現象ぐらいにはなるだろう。
 これには、時間がある程度かかる。繰り返し、訴えなければならない。この世の概念や常識は、繰り返されることによって固まった。人には個性があるというが、これも人が自分のことをどのように思い込んだか、そして思い込みを何度繰り返したかによって固まったに過ぎない。
 トラウマは、衝撃的な体験によってもたらされるが、これも実際に傷をのこすのは繰り返すことによってである。衝撃的な体験は原因であって、傷の正体ではない。傷は、衝撃的な体験の影響から逃れられず、繰り返し自らのなかに幻想を生み出すことによって発生する。
 社会も人の心も、繰り返すことによってできている。ウーマン・リブも、繰り返し述べることによって成功した。マンズ・リブの成功には、根気が条件となる。
椎名蘭太郎