今でも、男女の先天的な特徴――つまり男は力強さだとか甲斐性、女は優しさだとか美しさ――を強調し、それだけを求める傾向が根強いね。なかには、生物学のなかですらそういった声がある。
もちろん、それがまったく悪いとは思わない。ただ、不自然であるだけでね。
物事がそうなるには、必ず原因というものがある。あるいは意図が隠されている。男女の先天的な特徴も例外ではない。
男が肉体的に発達したのは、彼らが外敵との戦闘要員であったためだし、女が直観力を得たのは彼女たちが受身の立場であったが由縁である。つまり、受身ならではの彼女たちの立場と時間の使いかたが、結果として相手を観察する力となり、直感という能力を身につけさせたのだ。能動は行動することが多いが、受動は観察することが多くなるからね。
直感とは、長年のキャリアの積み重ねであることを忘れてはならない。これが、女の見えない部分の能力なのである。
男女の特徴は、環境に適応するため涙ぐましい変化を遂げてきた。はじめに男女らしさありき――だったわけではない。そして、男女の特徴を位置づけてきた環境は、近年まで、おおまかに言えば弱肉強食であったといえた。
もし、あなたが声高らかに男女らしさを強調するなら、同時にその男女の特徴を築きあげてきた環境、すなわち弱肉強食も支持すべきだろう。
少なくとも、弱肉強食の世界を否定せず、これまでの男女の特徴ばかりを強調するのは不自然というものだよ。
ただ、生まれ持ったものが先天なら、環境に適応する能力が後天である。環境が変われば、我々も変わればよいわけだが、環境が変わったからといってすぐに変われるわけでもない。でも、可能性はある。男女が別れる以前は、我々はトータルなひとつであったのだからね。
精子と卵子がであい、受精したときは、紛れもなく男女両方の可能性をひめていた。ただそれが、ボタンのスイッチが最初にどちらに押されたか、つまり性の遺伝子のスイッチがどちらに入ったか、それだけの違いなんだから。
我々は、ポテンシャルとしては男女どちらも備えているはずだ。
また、我々は生物として変化するにはそれなりの時間がかかると勝手に思い込んでいる。自分には無理だとね。
ただ、おそらくは我々がおもっている以上に生命が環境に適応する時間はみじかいよ。
今、世界は急速に弱肉強食から、少なくとも平和志向の社会へと変化しつつある。男の時代、すなわち腕力や権力が絶対的だった弱肉強食は過ぎさろうとしている。そして、今は女のもつ特徴がちからを発揮する時代でもある。
日本や先進国では、女の時代といわれているが、これは別に女が強くなったわけでも男が弱くなったわけでもない。今の環境が女の特徴と一致した――というだけのことでしかないんだから。
椎名蘭太郎
カテゴリー: 男と女のシーソーゲーム-椎名蘭太郎-
男の世界は終焉したのか?それとも一時的なものなのか?人類が生まれ、男と女が存在し、何万年もの間繰り返してきた男と女のシーソーゲーム。椎名蘭太郎が語る男の精神解放と女の駆け引き、そして本当の男女のあり方。
[34]美優醜劣 その二
女が男を選ぶようになったのはいつ頃からだろう? これは、日本がバブルと呼ばれた1980年代からではなかったろうか。三高と銘打たれた、高学歴・高収入・高身長を、女が公然と男につきつけたのが当時であった。
結婚相手への条件に、見た目や金品を恥じらいなく声高らかに唱える風習はそれ以前にあまり見られなかったし、冷静に捉えてみても美しい考え方ではない。ただし、この考え方は、バブル以降のこの国では当然のように受けつがれるようになった。社会において、女の優位な時代が到来している。
さらに月日が経ち、1990年代にはいると、日本社会にフェミニストの考えが流行しはじめる。同時のフェミニストは、社会というものは男が作ったものであり、男の都合のいいように作られている。だからこそ、社会に洗脳されてはならない――というものだった。
当時のフェミニストの役割は重要であり、女性解放におおいに役立った。ただし今後、この考え方はとても推奨できない。なぜなら、この思想は相手を否定するために多くを用いられすぎた。
現在、この思想に影響をうけた女達は、これまでになく男への無理解とエゴを発揮させている。自分を特別だとおもっている。男の立場を理解することすら放棄してしまったかのようだ。
今後、相手の性への理解をふかめることこそ求められる。もうそろそろ、相手をけなすのではなく、自分を高めるだけでもない、たがいを認め合う風潮が出てきてもよいはずだ。
そして、これに関してイニシアティブをもちうるのは女のがわだろう。女達がその気になれば、今すぐにでも円熟味のある関係を構築することができるのだからね。
椎名蘭太郎