パリを含む労働許可証をやっと手にしたものの、行政側のミスで通知が遅れたから半年無駄になっている。次の更新は8月、その時に過去三か月分の給料明細が必要だからさっさと就職しないと更新が出来なくなる。早速パリの日本語新聞を舐めるように眺めて幾つかの会社に応募する。でも、船の仕事もあるから探しているのは船に添乗することを可能に出来るパートタイムの仕事、そうなるとなかなか思うようなところが見つからない。
普通のパートタイムでも毎日出勤が原則、月に1回、1週間程度の乗船になるからそこだけ休めるパートタイムの仕事なんて、中々見つからない。船の仕事は契約上、最低賃金に成功報酬だからこれまでもそうだけど、生活なんで出来る収入にはならない。家賃もまともに払えるほどでないから貯金を崩しての生活。でも、これ以上それは出来ない、労働許可証もあるんだから何とかしないと、気持ちは焦るのみ。
幸いなことに私は英語が出来るから、仕事の検索範囲も日本語新聞からパリ在住の英語圏の新聞にも目を通してみた。面白いことにたまにだけど「日本語が出来る人材募集」というのもある。日本語新聞でなくあえてこのような所に出しているのはフランス人で英語と日本語が出来る人を狙ってのことらしい。だから日本人の私が応募したら、どの会社もすぐに面接という事になった。数件の面接の中、船に乗ることを許可してくれた会社が2社。
片方は日中、もうひとつは夕方からの仕事で、この2本を組み合わせればなんとか生活も少しは楽になるとぬか喜びしていたら。とんでもハップン。採用を決めて起きながら両社ともいきなり「やっぱり考えが変わった、不採用」という連絡が。1社は電話で告知、もう一社は初出勤した直後にそれを言われ、ハンマーで頭を殴られたような感じ。
採用通知は電話で受けても必ずメールか何か形に残るものを貰うことをここで学ぶ。
この事が起きて1ヶ月後、やっと就職が出来ました。ある程度の規模のある営利団体でしっかりしている。採用までの面接が長く終わるまで不安に刈られたけれど無事就職。
パリで英語を使っての仕事検索はこちらのサイトが豊富
http://www.fusac.fr/en/annonces_categories.php
http://paris.craigslist.org/
http://www.franglo.com/classifieds/index.php
夢路とみこ
[242]労働許可証への道(4)
2005年の秋、日本へ戻り人生をリセットするかと決めて、会社を自己退職しました。2004年の突然の解雇劇から救うように拾ってくれたアメリカの会社。ボスとは上手く行っていたけれど、なかなか知名度が上がらない私たちの船旅へのもどかしさ、保守的で出る釘は打たれるみたいな環境に嫌気をさしてパリに出て行った、或いは帰国した友人達の行動力に扇動されて、今決心しなければこのまま埋もれてしまう。そう思い、ディジョンを出る事を決意。
日本へ返る予定がセーヌでみた私たちの船、アナコリュート号に後ろ髪を追うぎゅーぎゅーやられ、帰国の準備がパリへの上京へと一転し久々の都会暮らしへと。
帰国を取りやめてパリ上京を真っ先に喜んでくれたのは、倒産した会社の社長。倒産した時の仲間の一部を呼び寄せて会社は再起したものの、今人材を増やすほど会社には余裕がないという。でも、日本市場は諦めたくない、この仕事が出来るのは私しかいない、と分っているものの何も出来ない。みすみす帰国するのを見送るか、と思っていた所だからパリ上京は吉報。
引越しだけなら簡単、でも私の労働許可証はブルゴーニュ限定。これがネックで倒産したすぐ後に上京を考えたけどパリでの就労が出来ないと分かり諦めた過程がある。でも、今度は違う、このパトロンが後ろ盾してくれるから何とかなるかもしれない。
パトロンが一緒に来てくれて二人でサンマルタン運河の側にある労働局へ向かったのが2006年の2月。サンマルタン運河は私がこの仕事について最初にクルーズした運河、思い出の場所。
パリの労働局に行く前にディジョンの県庁で今の労働許可証をこちらに移すのは可能と確認したにも関わらず、ここではけんもほろろ、管轄地区が違うからと。
あれから4回ほど申請のし直しを繰り返して、10月に降りるはずだったのが降りず、労働局の職員も「これはオカシイ」と再調査し直したら11月末にパリを含んだ労働許可証が降りていることを確認。驚いたのは2月に申請して8月には降りているのに、11月にそれを確認したので労働局からは県庁宛てに至急の発給を依頼したにも関わらず実際にそれを手にしたのは2007年2月。期限はあと半年しか残っていない。
手にしたとき、あまりの感動で失神しそうでした。パリに上京してほぼ1年、やっと、やっと手にした新しい労働許可証はフランス全土を含むもの。大きなため息が出た1日でした。
夢路とみこ