〔17〕お仕事と身だしなみ

派遣として働いていると「意外と大変かも」と思うことの1つに服装がある。

私が今就業している会社は、正社員の女子には制服があるが、派遣や契約社員にそれは支給されない。以前就業していた会社は制服支給があったので楽だったが、今はその倍くらい服に金がかかるようになった。“オシャレ大好き”“新しい物大好き”。そんな性分だと貯まるはずのお金も全く貯まらない。

私が今の会社に入った頃は、今よりもずっと派遣社員が少なかったので、非常に目だってしまったものだが、それが逆に嬉しくもあり、またそれによってちょっとした緊張感もあったものだ。

しかし、派遣社員の女子がすごい勢いで増えた今、「私なんて地味で目立たない部類に入ってしまうのでは?」なんておかしな危機感を感じるくらい、ファッショナブルな女の子達が、うようよいる。ちょっぴり大袈裟な言い方をすれば「おや?この通路はパリコレのランウェイ?」と思ってしまうほどだ。

夏なんてキャミワンピ(肩の部分が紐状になっているスリップのようなワンピース)に素足にミュール、や、タンクトップにジーンズ地のサブリナパンツ、そして厚底の運動靴など、思わず「ここは結婚式場か、はたまた高原か?!」と思わせるような素晴らしいいでたちの女の子が何人もいる。しかも年を聞いてみたら、私とさほど変わらない。これにはビックリした。

ま、本人がいいのなら、それでいいかもしれない。“右を見ても左を見ても同じファッション”というのは、日本が生んだバカバカしい文化みたいなものだ。個性を主張することも時には大切だ。

がしかし、ここは会社だ。個性の主張も時に必要にもなるだろう。しかし、第一段階で主張すべきは、やはり、“スキル”なわけだ。

端末を必死で叩いている時、その肩ヒモは落ちてこないのか。落とした物を拾おうとした時、下着が見えてしまうのではないか。取引先のお客様がお見えになった時、その服装でお茶を出すのか。等など、様々な不安が頭をよぎる。

30を過ぎ、出せる部分が少なくなった(?)せいか、やたらと身だしなみに気を使うことが多くなってきた私は、そのような人達を見ると、どうしても“おいおい、正気かよ?!”と目を覆いたくなってしまうような衝動にかられてしまう。

私が冒頭に述べた「金がかかるようになった」というのは、少なくとも自分の「服装」というものを2つ(“プライベート用”と“会社用”)に分けているからだ。普通それは教えられなくとも、社会に出て働いている人間にとって当然のことなのではないかと思っていた。

ピクニックに行く時は「汚れてもいい動きやすい格好」をするから、転んでも汗をかいても、それをひっくるめて“楽しかった”と思えるのだ。美味しい懐石料理を食べに行く時だって同じだ。「自分のワードロープの中でちょっとだけ品のよい(と思われる)服」を着るから、料理の味、その時の会話など、全てをひっくるめて、“美味しかった”と思えるのだ。

身だしなみも大切な調和の中の1つであり、その日のテーマを楽しむための大切な道具である、というごく当たり前のことを忘れてしまっている人が年々多くなっている気がする。

先日人事部の人と帰りが一緒になったエレベーターの中でこう言われた。「今の派遣の子たちの服装はすごいね。今上の方でもちょっと問題になっちゃってるんだよ。どうすればいいのかな」

彼がわざわざ同じ派遣である私に言ってきたのは相当なやんでの事だったのだろう。思わず私もどう答えていいかわからず、同じ立場の人間として非常に恥ずかしくなってしまった。

単なる身だしなみの話を「派遣」という枠で括るというのもおかしな話だが、“派遣=腰掛け”“派遣=お気楽”という図式が成り立ちつつある、うちのような企業から見れば、「そう思って下さい」といわんばかりの行為にもなりかねない。「派遣社員というのはTPOを知らない、ちょっと頭の弱い人達の集団」というレッテルを貼られかねない。少なくとも私の仲良くしてる派遣仲間の中にはそんな人は1人もいないのだから、それだけは困る!

上に着ているタンクトップをプレーンな白のシャツに変える、ワンピースにカーディガンを羽織る、そんな小さい一工夫で全然違った印象を与えることができる、それがファッションの醍醐味なのだから、その辺をもちょっと活用してほしいものである。

こうなったら、うちの会社専属、風紀委員長“派遣ビューティーアドバイザー”にでもなろうかなぁ。

2001.10.04

〔16〕米国同時多発テロについて

しじみです。NYに住む高校時代の大切な友人と先日やっとメールにて連絡をとることができました。TV映像を見ている限り「すごいな」とか「わぁ怖いな」くらいしか感じなかった私ですが、友人のメールを読んだとたん、自然と鳥肌がたち、涙が後から後から溢れてきました。今回はお仕事の話をちょっと離れ、この容易ならない問題について私の意見を書いてみようと思いました。世界各国に住む友人が、そして私たちが、再び平和な世界で生活できることを祈り…。

私は社会的に問題になっていることを自分なりに分析して、結論を出すという作業が好きだ。だが、たいていの場合、結論が出た頃には「あんた、いつの話してるのよ。」と周りの人に笑われてしまう。そう、私は頭の中で物事を処理する能力というのが人一倍遅いのだと思う。

そんな私の頭の中で毎日ぐるぐる回っているものがある。それは今世間を騒がせているテロによるNYビル襲撃、そしてそれを基点に始まるであろう世の中の様々な変化だ。

会社にいても、飲みの場でも、気のおける友達と遊んでいる時にも、その話題に触れない日というのが、あの日から、ない。

若い頃沢山勉強した物知りな人や、頭の回転が早い人、お喋りな人、は「この時ぞ」とばかりに意気揚揚と“報復”ついて反対だ、賛成だと語っている。その中で私だけがいつも頭の中を整理できずに、発言できないでいるのだ。

8月に靖国神社参拝の騒ぎがあった時もそうだった。周りの人が討論している中、私だけぽけーっとしていた。その時はさすがにそんな自分が情けなくなり、関係する本を人に教えられて数冊読んだ。

その段階で私は初めて日本の悲しい歴史や様々なむごたらしい事実などを知り愕然とした。そして強く感じたのは「私達の出る幕ではないな」ということだった。本当に戦争を体験した人でなければ、きっとそれは本当の意味で語れないのだ。戦争も知らず、平和を絵にかいたような中で、たかだか30年しか生きてないような自分が語ってもそれは何の意味も持たないのではないか、そんな風に思った。

話がそれてしまったが、今回のことはそれとはまた全然違う。どんな本を読めばいいのかもわからないし、教えてくれる人もいない。新聞も雑誌の特集もなんだか全く正反対のことが書いてあるような気がする。人の話を聞いていても、焦点がズレているような気がして、どことなくしらじらしく聞こえてしまう。

米国は「報復」と叫んでいるが(報復とは“3倍にして返す”という意味があるのだそうだ)それでことは収まるのだろうか。私は決してそうは思えない。今回のテロ事件で沢山の関係のない人が巻き添えをくった。米国が「報復」としてまた同じような手段に出た場合、関係ない数多くの命が失われるだろう。

あの事件があってからNYに住む友人と2,3度メールのやり取りをした。彼女はあの真っ白な煙の中を泣きながら1時間かけて避難し、そして今現在も日々沢山のデマに踊らされ、眠れない夜を送っている。アフガニスタン難民達も物資の供給が行き届かず、ろくに食べ物も食べられない日々が続いている。米国に住む600万人のイスラム教の信者たちもひどい嫌がらせを受けている。何も関係のない人達が、肉体的にも精神的にも苦しんでいるのだ。

「報復」も大切だと思う。悪い事をした人間にはそれなりの制裁が加えられるべきだ。しかし、その前に守らなければならない存在が沢山あるのではないか。それに何故気付かないのだろう。「報復」に賛成している91%の米国民達は、そのことの意味を本当に理解しているのだろうか。全く同じこと以上のことをしようとする行為に本当に賛成しているのだろうか。

テロで犠牲になった関係ない遺族の方のことを考えると、首謀者に対し強い怒りがこみあげてくる。しかし、それを「報復」だけで解決しようとしている米国政府そのものに対しても、今の私は不思議と怒りを感じている。

そしてそんな米国の戦略に「ちょっと待った。おかしいよ」をかける前に「米国を全面的に支持します」と言わざるを得ない日本にもなお私は非常にやりきれないものを感じている。

—-今回のテロで犠牲になった世界各国の方々のご冥福を心から御祈り申し上げます。そして世界各国に住む、被害を受けている関係ない人達の生活が1日も早く元通りに戻り、再び世界に平和が訪れるよう、お祈りしたいと思います。

2001.09.27