〔22〕リセット

気がつけばもう今年も残すところあと1カ月とちょっと。私の周りも徐々にそわそわし始めてきました。仕事、プライベート共になんだかハードになってきそうな雲行きです。ばたばたと時間に追われていると、つい本来の自分を見失ってしまう私。先日ちょっと会社をズル休みして自分を取り戻す時間を作ってみました。だいぶ元気になってきたので、この調子で年末乗りきることができればいいな、と思っています。

私は今思えば、小さい頃から反抗的な人間だった。父からは「我が強い」と、母からは「短気」と言われた。

事実、中学時代は髪の毛を脱色したり、制服のスカートを短くしたり、と校則違反を繰り返す、いわば問題児だったのだ。

高校に入って行動範囲が広がってからは、更にそれはエスカレートしていった。悪友達と一緒に夜な夜なディスコやクラブに繰り出し、朝帰りをし、学校を休んだ。今思えば何でも適当に気の向くままに遊び、何をするにもはじけていたのだなぁ、と思う。

そんな私だから、派遣でフラフラ働いているとは言え、今はそれなりに“地に足のついた”生き方をしているつもりだ。配属される場所によって、そこの色に、ちょっとだけ自分を染め、小さい頃一切もらえなかった「よくできました」というはんこうを、今もらっているような気がする。

確かに「よくできました」と言われることは嬉しい。上司に誉められるために「しっかり仕事をしなくちゃ」と思う。そして「山口さんありがとう。助かったよ」といわれると「今日も一日いい仕事をしたな」と安堵のため息をつく。

ただ、そんな風に精神的に安定したかのような生活が数カ月ほど続くと、私には必ずと言っていい程、「全てをシャットアウトせざるを得ない時」がやってくるのだ。

目から入ってくるもの、心に感じること、皮膚にまとわりつく空気、それが心地いいものであろうとなかろうと、全てをシャットアウトしてしまいたくなる、「生きている」ということにすら反抗してしまいたくなるような瞬間だ。

「このまま会社に行ってしまったら、私は酸欠状態の金魚のように呼吸が荒くなり、倒れてしまうだろう」そう思い、怖くなる。

試合中のレスラーが締め上げられてる時、必死でロープを掴み、リング下に下りて、呼吸を整えるためにいったんエスケープする。呼吸をちゃんと整えておかないと、リングに戻っても負けてしまうだろう。新しい自分で戦うために、今までの自分をリセットしなければならない。それと同じような感覚なんだと思う。

そんな時、私は何かに反抗するかのようにに会社を休む。そして休んだ初日に「あと2~3日休むだろう」とすでに確信を持っている。野生の勘というものだろうか、「そうしないとダメだよ」という独自の警報が私の中で鳴るのだ。

そして日がな一日、ボーッとしながら、詩を書いたり、それを自分の弾くギターのつたないメロディーにのせながら歌ってみる。「なんじゃ、こりゃ。変な曲だな」なんて1人で笑いながら、ベランダで洗濯物と一緒に太陽に当たる。

それは、いつのまにか反抗の仕方を忘れ、大人になってしまった私ができる1つの小さな反抗だ。

大きな社会の呼吸に巻き込まれながら、いつもそれに負けてしまう。仕事や日常生活でせわしなく動いている自分を好きになるよう努力して、「私はそういう人間なんだ」と思い、信じこむ。

不思議なことに、せわしない日常の中では、物事を素直に受け入れようと思えば思うほど、自分を見失ってしまう。私にとっての本当の休息は、そんなおかしな観念を見つめ直し、「つい忘れてしまう自分」を取り戻す大切な時間だ。

「あ、やっと大きく深呼吸ができた!」

そう感じた瞬間、私は閉じていた目をまた開けてみる。明日からはもっと私らしく“反抗”しながら生きていこう、とハッパをかける。本来の自分にリニューアルするために。もっと自分らしくパワーアップするために。

2001.11.09

〔19〕自律神経失調症<後編>

新しい仕事(つまり今の仕事)についてから、1カ月、いや2カ月近くは眠れない日々が続いた私は、色々な快眠方法を試してみた。人間の鼓動と同じリズムと言われる波の音のCDを聴いたり、アルファ波を刺激するアロマオイルを買い、部屋にまいたりした。

しかし、その効果は殆ど見えず、結果的にその疲れやイライラは仕事中にも及ぶようになりはじめた。

朝、電車に乗っていると、急に熱が出てくるような感覚でフラフラしてしまう、仕事中、端末を叩いていると暑くも寒くもないはずなのに、大量の汗をかいしまう、電話に出た時どもる、そんな症状が出始めてしまったのだ。

怖い、怖い。どうすればいいのだろう。途方にくれていた矢先、親友から「精神的なものだよ。しじみはいつも強がってしまうからね。そういう人には神経の病気が多いっていうから一回診てもらいなよ。」と病院を紹介された。

「自立神経失調症」

漠然とその病名が頭の中にあった私は思いきってその病院に行き、診察に入り、開口一番「たぶん私は自律神経失調症だと思います」と告げていた。

すると先生は「あなたは健全な人間よ。自律神経失調症ではないわ。」と私をまっすぐ見つめて、一笑した。

その瞬間、何故か私は大泣きし、喋ることもできなくなってしまったのだ。先生はこうおっしゃった。「自立神経失調症というのはね、病気のゴミ箱なのよ。検査しても原因が見つからない時に、しかたないから病名つけちゃえ、ってバカな医者がつけた病気なの。だからそんな風に決めつけては絶対だめ。」

落ち付きを取り戻した私はそれまでの経緯を話した。「今の状況、先のこと、全てに不安がよぎるときがあり、それには“これ”といった理由がないため、それがとても怖い」「毎日がとても無意味に感じられ、楽しいことが1つもなく、何のために生きてるかわからなくなることがある」と説明した。たぶん滅茶苦茶な説明だったと思う。

ずっとニコニコと私の長い話を聞いてくれた先生は「誰だって持つ悩みね。でもあなたは健康よ。何かに悩んだり落ち込んだりできない人間の方がずっと不健康なのよ。」

そしてまた私をチラッと見た後、「あなたはオシャレ好きでしょ?そのシャツとてもステキよ。暇がある時はそれに時間をかけなさい。きれいでいることだって、自分の身を助けてくれる大切なことの1つよ」と付け加えた。

何度も励ましてくれた後、先生は漢方の睡眠薬を処方してくれた。「それを飲んでも眠れなかったらもう1度きなさい」そう言って私は診察室を出された。

自分が単純なせいか、先生のアドバイスのしかたが的確だったせいか、はたまた処方してもらった薬のせいか、それからの私は徐々にいつも通りの元気を取り戻せるようになってきた。

実は今でも、寒い日に汗を大量にかいたり、急に眠れなくなったり、とその兆候がでることがある。そんな時はその薬に頼り、先生と話をするために病院に出向いたりすることもあるが、前に感じたような切迫した不安や恐怖感はない。

「これが今の私の正直な姿なのだろう」と思うようにしている。

強い人、弱い人、というのを私はあまり考えない。何故ならそれは状況により変わるからだ。強い人だって、周りの状況全てが自分にとって不利になれば、弱くなってしまうだろう。弱い人のその逆だってあるかもしれない。生きているということはそうやって変化し、動いているものだと私は思うようになった。

私は確かにあの時、自分を律することがうまくできなかった。あの頃の私には確実に「自立神経失調症」の兆候があった。もし、病院でそう診断されたら、それはそれで終わっていただろう。

でも、私には「絶対に違う」と最後まで押しとおしてくれた先生がいた。そういうことで人というのはしっかりした精神を持ちつづけることができるのではないかと思うのだ。

何か1つのことを結論づける前に、全く違う方向を見つめてみる、そうすることによって、それが目に見えない漠然としたことであっても、いや、あればあるほど、人というのは無限の可能性を信じることができるのではないだろうか。

大切なのは“強くありたい”時も、思いがけなく“弱くなってしまった”時にも、その根底に「健全な精神」があるかないか、なのではないか、と今、私は思っている。

2001.10.18