[15]幼稚園時代

2019年3月21日

第15回
■幼稚園時代
私が日本橋に生まれ、小学校2年生の終わり・・昭和10年の3月まで此の日本橋にいました。遊び盛りと云っても小学校2年生までですから、今その当時の記憶を辿って書いています。前にも書きましたが小学校は小伝馬町の十思小学校です。昭和七年5歳の時に此の小学校の幼稚園に入りました。クラスは「桃組」です。二クラスあつて、もう一組は「赤組」と云いました。
この頃の幼稚園は服装は自由であったが、決まってしなくてはならないことは「アブちゃん」と言うエプロンを着なければならなかったようです。これは服を汚さないためだったと思います。そしてその胸にハンカチのような布きれを二つ折りしてピンで止め、そこに桃組なら桃色の花、赤組ならば赤い花を付けていました。花は勿論造花です。この頃でも幼稚園は男女は共学でした。児童は二組合わせて七十人ほどいたようです。
行事は五節句(1月7日=人日)(3月3日=上巳)(5月5日=端午)(7月7日=七夕)(9月9日=重陽)・・これらの五節句は明治6年に廃止されたのですが、風習としては残っていて此の幼稚園の時代にもそれぞれの行事はあったようです。
お分かりとは思いますが、1月7日は七草粥を食べてお正月はおしまいと云う日です。3月3日はひな祭りですね。5月5日は端午の節句と云って男の子のお祝いです。7月7日は七夕の日ですから、一年に一辺男女の出逢いの日ですね。9月9日は宮中の行事ですからあまり一般には関係ありません。
その頃の幼稚園では学科を教えることはしませんでした。天気が良ければ校庭へでて、みんな輪になって集団遊技だの、天気が悪ければ教室で先生方の人形劇を見たり、あとは大きな積み木で色々な物を作ったりと云うような日課でした。たまに遠足なんかは楽しい行事でした。
だけど不思議なことに遠足と云っても児童の親は一人も付いてこないと云うことです。親が付いて来なくても先生が4,5人付いてきて、児童達は先生の云うことを素直に聞いていたから親は付いてこなくてもよかつたのかも知れません。
この頃は通学するにもあの大きく廣い昭和通りを横切らなければならなかったのですが、全然車は通っていない状態だったから心配はなかったのでしよう。ただ学校の帰りに雨が降ったりすると母が蛇の目傘で迎えに来てくれました。その頃の路地は舗装されていませんでしたから、和服の裾を絡めて駒下駄に覆いを付けて歩いて来るのです。この頃は道路は舗装されていませんからぬかるみで歩くのも大変でした。
♪ 雨雨降れ降れ母さんの 蛇の目でお迎え嬉しいな
ピチピチ じゃぶじゃぶ らんらんらん ♪
こんな歌がぴったりの状況でした。この歌のあとに母が迎えに来てくれない子が出て来ますが、さぞ哀れだったでしょう。
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