[160]母校・明化尋常小学校

2019年4月27日

第160回
■母校・明化尋常小学校
私は前にも少し書きましたが、生まれは東京日本橋ですから、幼稚園と小学校は日本橋の「十思尋常小学校」に入学し、昭和10年三年生の一学期限りで、小石川に移りましたので、三年生の二学期から此の「明化尋常小学校」に転校して来ました。
此の学校の校舎は鉄筋三階建てで、運動場も広く、その端に大きな1本の「欅」の木が立っていました。明るい日差しの中で木の葉がゆらゆらと動いていました。ここで此の「明化尋常小学校の校歌」を記して置きたいと思います。創立以来校歌はあったと思うのですが、ここに書き留めた校歌は「昭和5年 武島又次郎作詞、田村虎蔵作曲」とあるもので、比較的新しいものですね。この間贈られた「創立130年誌」には昭和5年までは特別「校歌」はなかったようなことが書かれていますけどね。

  (1)♪ 緑しげれる 樹々の丘
歴史久しき わが校の
雄姿を日ごと あおぐにも
学ぶわれらの ほこらるる ♪
(2)♪ いざいざ共に 励みつつ
絶えぬ努力に すすみなん
たぐいすくなき 日の本の
明るき文化 築くべく    ♪

先日明化小学校宛に、私達の卒業写真を送って、同窓生達の卒業名簿があったら欲しい・・と云ったのですが、現在の校長先生から丁重な返事を頂きました。一生懸命に探してくれたと思いますが、何しろ69年前のことですから、当時の卒業生だと云う名簿の断片を送って下さったのですが、50名ほどの名前には男は2名しかおらず、後は殆ど女性でした。
当時は学校には一組、二組が男子で、三組、四組が女子でしたが、男と女の交流は殆どありませんでしたから、全然知りません。何しろ「男女七歳にして席を同じゅうせず」と云う時代ですからね。
明化尋常小学校の歴史は古く、恐らく東京で一番古いのではないかと思います。先日の現在の校長先生からお手紙と一緒に、3年前に創立130年記念の小冊子を頂きましたが、その中には色々な当時の写真などが載っていましたが、先ほど書きました校庭にあった大きな「欅」は今はないそうです。その代わり「楠木」があるそうです。そしてそこには「欅」の木で作った断片の写真が載っていました。なんか淋しい気がしますね。あんなに大きな「欅」が枯れてしまったなんて・・・
しかし130年もの長い間には、沢山の卒業生がいたはずですが、たしか戦災にも遭わなかったようなので卒業生の名簿と云う記録は残っていないのですかね?又その時に昭和14年の卒業写真も送りましたが、どうしたのですかね?・・もう古い話ですからね。また今の校長先生と云ったって、私の子供くらいの年齢でしょうからね。
創立は明治7年8月で、小石川区原町の浄土寺と云うお寺で、教員3名、児童20名、教室1で「明化学校」として始まったらしいです。そしてその後に竹早町だの大塚窪町に移転したり、後には徳川の屋敷跡を譲り受けて小石川区林町に移ったと云います。その間、東京府小石川区立明化小学校となり、そして明治12年に東京市小石川区立明化小学校となり、そして明治24年に東京市小石川区尋常高等小学校となったようです。
どうして此の学校は「明化」と名付けたのでしょうか? 近隣の後述した小学校は、すべて町の名前が付いていますのに、なぜ「明化」なのでしょうか?・・これは私の勝手な想像で、特別の根拠がある訳ではありませんが、明治維新から当時は「文明開化」と盛んに云われていた時代ですね? ですから「文明開化」から「明化」と誰か分かりませんが、付けたのではないかと私の想像です。この辺には「明化」と云う地名もありませんし、特別の意味もなさそうですしね。
最初20名足らずで、男子生徒17名、女子生徒3名で発足した学校でしたが、年々生徒が増えて収納出来なくなったので、近隣に沢山の小学校を創って生徒を移したと云います。私が入ったときにも、生徒数は2000人位いたと思いますよ。何しろお昼休みなんか、運動場は一杯でしたもの・・。
分校と云う形で出来た小学校を記しますと、駕籠町小学校、本郷小学校、柳町小学校、指ヶ谷小学校、林町小学校、などですが、常にこれらの学校と対校試合がありました。たとえば「相撲」とか「習字」とか「絵」とかです。六年生になると、これらの選手になって出場しなければなりません。