[70]目黒もらい子殺し
第70回
■目黒もらい子殺し
板橋岩の坂のもらい子殺しの話をしたばかりなのに、又同じような事件をお話しなければなりませんが、前の話と決定的の違いは、岩の坂の事件は犯人はもらい子を殺すと云う意思はあったにしても、表面的には「過失死」となっているのに対し、この事件は全くの「殺人」だったことです。
それにしても此の時代には、何故このような事件が頻発したのでしょうか? 一つは此の時代は不況のせいもあり、国民全体が「貧乏」であり、それに女性にきつい「姦通罪」や「堕胎罪」等があったからかも知れません。男女の関係は今も昔も変わらないとは想いますが、闇から闇に葬ってしまおうと思うのは法が強かったからかも知れません。
それに、もらい子殺しが後を絶たないのは、子供をもらい受けると一緒に幾らかの養育費も受け取れ、金になったからと思われます。又その子供は親が分からない子供や、親が名乗り出たがらない曰く付きの子供ばかりで、死なせても足が付くことはなかった・・と云う事情もあったと思われます。
此の事件の発端は、昭和8年3月1日午前9時頃、深川区富川町先に生後2ヶ月くらいの男児の絞殺死体が風呂敷に包まれて捨てられているのを通行人が発見し扇橋署に届けたのが切っ掛けです。
署ではあちこちの産婆を調べたところ、神田美土代町の産婆が洋服姿の男に前に子供を渡したが、その男は子供を育てるような風体ではなかったと証言。署では前科者で前にもらい子殺しである川俣の写真をその産婆に見せたところ、間違いないとの返事を得て、川俣の居場所を突き止めた。
そして、昭和8年3月10日に栃木出身の自称外国語学校卒業の川俣初太郎31才を扇橋署がもらい子殺しの容疑で逮捕したことから始まります。
彼が泊まっていた本所吾妻橋の木賃宿喜久屋本店の3畳間から生後2ヶ月くらいの女児の死体を小包に詰めたものが発見され、また生後10日ほどの子供が無事に見つかったと云います。
ところが此の川俣と云う男は非常に「嘘つき」であったようで自供では、もらい子は全部で16人、そのうち6人を殺して杉並の熊野神社に埋め、9人は他人にやり、1人は無事だと云う話でしたが、警察は杉並で死体の捜索は無駄骨だったと云います。つまり死体は出てこなかったと云うんです。
川俣は10円や20円と云う僅かな養育費欲しさに。もらい子をしては殺し、と云う犯行を繰り返していたのです。板橋の場合は「過失死」と云う消極的な殺人であったけれど、川俣の場合は絞殺など極めて悪質な犯行であったと云います。ですけど結果は同じと思いますがね。
(続く)
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