[105]張作霖・爆死事件
第105回
■張作霖・爆死事件
昭和3年6月4日午前5時半、満鉄奉天駅から1Km地点の京奉線を張作霖(ちょうさくりん)の乗った列車が走行中、陸橋に差し掛かったところ、突然仕掛けられていた爆弾が爆発、張作霖が乗っていた貴賓車を直撃、公には張は負傷するも命は助かったなどとされていましたが、実際には即死だったと云います。
日本の独立守備隊は列車の通過の前に怪しい中國人が現場を視察していたとして、蒋介石軍の仕業だったと報告していましたが、実際には現地の日本軍が独走して爆殺したものでした。
張作霖は日本の元号に換算すると明治6年生まれとなります。遼東半島の海城県の百姓の家に生まれて、周辺は大豆の産地として有名でした。15才の時、村に馬賊が来て隣家の馬を盗もうとしたので、張は馬賊の一人と格闘して、その首を落としてしまい、近所では暴れん坊として知られるようになりました。
そして20才の頃にはすでに馬賊の頭目に成っていたと云います。その後には清帝国に帰属して、26才で奉天省の騎兵の小隊長になり、やがて日露戦争では日本軍とぶつかりましたが、取りなす者がいて事なきを得ました。
それから12年経って第一次の革命が起きましたが、張は政府側の第27師団長として奉天の治安にあたり、袁世凱の革命軍と手を結びました。そして袁世凱の死去で満州の総督が逃亡したので、張は満州地域の最大の権力者になったのです。
張は軍閥を率いて北京に入城し、昭和2年には自ら大元帥を名乗って傘下の軍閥の前で式典を行いました。しかしこれが張の絶頂期だったようで、その後蒋介石の北伐に破れ、昭和3年に北京から満州に逃げる途中に爆死して生涯を閉じました。
昭和3年6月4日のこの爆殺事件は東京の各紙の夕刊は大ニュースとして報じました。なぜ張作霖が何故列車に乗っていたかと云えば、それまでは本拠地にしていた北京が、蒋介石軍の攻勢で耐えられなくなったので、満州へ撤退する途中であったと云います。
此の頃の中國は統一政権がなく、張作霖を大元帥としていた軍閥を北軍、蒋介石の国民党を中心としていたグループを南軍としていました。その他にもどっちを味方にしたり、裏切ったり中立を宣言したり、又妥協なども頻発して非常に分かり難い情勢になっていました。軍閥も数多くいて、北軍、南軍の中でも主導権争いがあったようです。
こうした中で上海などの主要都市に租界と云う外国人植民地のような区域が存在して、そこを守備するアメリカ、イギリス、フランスなどの軍隊も駐留していました。当然日本も守備隊を置いていた訳です。さらにロシアもスパイなどを送り込んで弱小勢力であった中國共産党を支援していたようです。中國とはこのように此の時代には群雄割拠し、又列国の軍隊も自己の租界を守ると云う政治的には統一されていない国だった訳です。
飯田昭一
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