[112]忠犬ハチ公物語(4)

2019年4月27日

第112回
■忠犬ハチ公物語(4)
前号より続き
十数年の長い間、飼い主の上野博士を迎へに渋谷駅に行っていたと云う事が事実であれば「忠犬ハチ公」として愛犬家やハチ公を愛する人達のシンボルで良いのではないですか? それを何で純粋の「秋田犬」で父犬が「大子内号」で母犬が「胡麻号」で血統書まである・・・なんて云うのでしょうか? その上に「忠犬ハチ公」は名犬「一文字号」の孫だとも云っています。前述したように「秋田犬保存会」は昭和2年に、「日本犬保存会」は昭和3年に設立されて、以来犬籍簿が整備されて来た訳で、それ以前の大正時代に血統書が存在したとは思えません。
前述しました昭和6年に鏑木博士が調査して天然記念物に指定した秋田犬について、日本犬保存会、秋田犬保存会に登録して犬籍簿に記載されているものを調べましたら次の通りでした。
先ず泉茂家氏の「金号」牡ですが、作出は箕輪陽一氏、昭和5年5月生まれ、右巻尾,体高二尺二寸、日犬籍6号、・・と成っていますが、此の犬の父犬は「栃二号」牡,毛色胡麻班で頻繁に作出に使われた犬で、所有者は同じ泉茂家氏ですが、此の犬は両親その他一切不明で、勿論日本犬保存会にも未登録でした。此の犬は昭和初期には闘犬として使われていたと云います。形は秋田犬の様ですが「耳」の形が秋田犬の三角で小振りの前傾とはなっていないような気が致します。
それに「金号」の母犬の「白号」ですが一切不詳の犬で、勿論未登録ですが、土佐犬系の犬だったと云われています。此の「金号」と「一ノ関タマ号」牝との間に生まれたのが「一ノ関トラ号」でした。此の「一ノ関タマ号」は前述した秋田の田山氏の所有の牝犬ではなかったかと思います。此の犬も未登録でしたが、同胎犬に「羽生太郎」日犬籍84号が居ますが、此の犬の父犬も前述の「栃二号」でした。母犬は通称「ババ胡麻」でしたが、同じ「栃二号」子供同士のインブリードで「一ノ関トラ号」牡、日犬籍27号、昭和7年9月29日生まれ、後脚X型、赤虎毛、短毛、左巻尾、二尺三寸と云う秋田犬の基礎犬が出来たとされて居ます。
血統的な問題については、戦後に多少研究したことがありますので、又のちにお話しすることにして、再び「忠犬ハチ公」のお話に戻ります。
あまりに有名になった「忠犬ハチ公」については、あまりに事実には触れないで、定義付けをしようとしている嫌いがありますが、事実は事実として記録しておくことも大切なことだと思います。だからと云って事実を知っても「忠犬ハチ公」に傷がつくものではありません。
先程も書きましたように「忠犬ハチ公」が大正期に生まれていると云うことから、当時の秋田県大館地方には純粋な秋田犬がいなかった・・・と天然記念物の調査に行かれた渡瀬庄三郎が云っておられたように雑犬ばかりであったと思われます。
「ハチ公は」大館市の大子内の斉藤義一方で生まれたと有り、生家の前には石碑もあると云われており、真偽は別としてこれが定説にはなっています。しかし、作家の沼田陽一氏がこうも書いて居ます。
「ハチ公」は秋田の大館に生まれたのではなく、東京の生まれで、大村伯爵が飼っていた牝の秋田犬に雑種がかかって生まれた秋田の雑種であったものを、大村伯爵家に出入りしていた東京電力の桃井春男と云う人が貰い受けたが、ろくに世話が出来ないので当時渋谷区鉢山町に住んでいた農学博士、東京帝国大学教授の上野英三郎氏が犬好きと聞いたので譲った様だ。
又、主人の帰りを待つために毎日、渋谷駅に通ったのではなく上野博士の死後、未亡人は犬嫌いだったとみえ、ろくに餌もやらない有様で「ハチ公」は野良犬と化し、渋谷駅界隈にある飲食街に餌を求めて毎日通っていたのではないかと云う説もある。
死後に解剖したところ胃から多くの焼き鳥の串が発見された事実もある。・・と書かれています。此の朝日新聞の記事を書いたのが連合通信社の記者であった細井吉蔵と云う人で、其の内容の殆どは当人の創作だったと云います。そこには「秋田犬の雑種」とはっきりと書かれていたと云います。
しかし、犬は肉食動物ですから、放し飼いして餌もやらない状態があったとすれば、「ハチ公」だって生きるためには餌を求めることは当たり前だと思いますね。