[111]忠犬ハチ公物語(3)

2019年4月27日

第111回
■忠犬ハチ公物語(3)
前号より続き
[筆者注記 秋田犬に関する私見]
以上に書いたことは「忠犬ハチ公」に関する一般的の事柄ですが、既に80年以上も経過している訳ですから、実際に見聞きした人は殆ど生存していない状況では、「伝説」の話になり勝ちですね。あまりに有名に成り過ぎていますから、話が美化されているようにも思えます。
私は戦前は幼かった関係で、飼っていたのは「シェパード」でしたが、当時から日本犬・・特に大型の秋田犬が欲しくて仕方がありませんでした。詳しくは又後に書きますが、自分で飼えるようになったのは戦後のことです。秋田犬専門で多いときは子犬を含めて15頭もいました。ですからそれなりの研究もしてきました。それで「忠犬ハチ公」の事についても、秋田犬としての私見を書いて見ようと思います。
確かに「秋田犬は一主にしか仕えない」と云う性格はあります。幼犬の時から一人の人が面倒見がよく、常に一緒に生活すれば主人と他の人では態度が違って来ます。主人の云うことは絶対です。ですから「ハチ公」の行動は確かに秋田犬の基本的な習性は持っていたと思います。
でも云われているように「純粋の秋田犬」であり、血統書まで付いていた・・とは疑問です。大正時代の秋田県大館あたりの秋田犬は殆ど放し飼いであり、マタギ猟に使われていました。つまり大型の猟に、例えば熊とかイノシシだとか鹿などの狩猟に使われて居て、普段は大きな木の根のあたりに残飯をぶちまけ、そして味噌汁なんかを掛けて、肉類は猟があったときだけ食べさせて貰えると云う、今の愛犬家には考えられないような状態でした。
それに大館城主が「闘犬」好きであったことから、此の地方の人達も「闘犬」を好んで、強い犬を作ろうとして、やたらに他犬種を混ぜてしまったのです。ですから明治、大正時代には純粋の秋田犬はいなくなったと云われて居ます。
明治33年に大正天皇が未だ皇太子の時代に、秋田犬が二頭献上されたと云い、今其の写真が手元にありますが、画像が悪くはっきりとは見えません。此の犬は大正3年に大正博覧会に出陳されたとありますが、定かではありません。
國に於いても大正の初期から秋田犬の保護に対する世論が高まって、大正8年に渡瀬庄三郎博士が中心となって、種族保存に対する法律が施行されました。それで博士が大正九年に大館地方に調査に来られたが、秋田犬のタイプがあまりに雑多で天然記念物に指定することは出来なかったと云います。このことは大正11年の動物学会において「日本犬の起源について」を発表しましたが、一番の議論の焦点は秋田犬であったと云われています。
又、昭和に入ってから日本犬に対する世論が高まって、昭和2年5月に「秋田犬保存会」が設立され、昭和3年6月には「日本犬保存会」が設立されました。此の「日本犬保存会」は秋田犬ばかりでなく、北海道犬、柴犬、甲斐犬、四国犬、紀州犬などの保護に当たりました。このほかに越の犬、とか樺太犬、高安犬なども居ましたが、現代では絶滅したか見ることも出来ない犬種もあったようです。
その後昭和6年春に東大教授の鏑木外岐雄理学博士が団長となって再度大館地方に調査をされて保存の意義を感じ、初めて「秋田犬」と云う種族に対して「天然記念物」に指定したそうです。その時昭和6年7月に指定した対象犬に泉茂家氏の「金号」(牡)・「松風号」(牝)、一関氏の(牝)、青柳氏の(牝)、高橋氏の(牡、牝)、田山氏の(牡、牝)等の数頭であったと云います。
ですがこの中に「忠犬ハチ公」の生家とされる斉藤義一氏の名前がないのはどうしてでしょうか?昭和6年に鏑木博士が天然記念物に指定した頃にはまだ「忠犬ハチ公」は生存していた筈ですけどね。そしてこの頃から「秋田犬」と名称が変わった・・と云います。
これらが事実とすれば 、大正12年に生まれた「忠犬ハチ公」は「秋田犬」ではなかったことになり、その地方の土着犬と他の犬との雑犬であったことになります。確かに一主に仕えた行動を見れば「秋田犬」の素質は持って居たとは思いますが、ここで「忠犬ハチ公」についてどうこう云うのではなく、純粋な「秋田犬」であったのかどうか・・と云うことです。そうだとすれば「ハチ公」の父犬が「大子内号」だとすれば、「大子内号」の父犬が「一文字号」と成る訳ですね。