[110]忠犬ハチ公物語(2)

2019年4月27日

第110回
■忠犬ハチ公物語(2)
前号より続き
ハチ公は先生が亡くなられたことは一生知らず、雨の日も、風の日も、雪の日も欠かさず渋谷駅に迎えに行ったそうです。そしてその一途な姿に人々に深い感銘を与え「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになりました。
昭和8年頃、斉藤弘吉と親しい彫塑家の安藤照がハチ公の話に感動し、斉藤に像を造りたいと話し、それを知った小林はモデルとなるハチ公を連れて初台にある安藤のアトリエに毎日通ったそうです。そして昭和9年1月「忠犬ハチ公銅像建設趣意書」が作られて、銅像建設の募金が始まりました。そして4月渋谷駅前にハチ公像が建立されました。(作:安藤照)
此の像は台座の高さ180cm、ハチ公像の高さ162cmで、昭和9年4月21日に除幕式が行われました。これには上野博士の未亡人、各界の名士など300人が参加して、ハチ公は此の一部始終を吉川渋谷駅長と一緒に見守っていたそうです。
そしてこの時「ハチ公の夕べ」が催され、大変お世話になった吉川渋谷駅駅長さんと一緒にハチ公もステージに上がり、一杯の観客席から大喝采を浴びたそうです。ハチ公は10才になっていました。
又5月10日には銅像作者である帝展審査委員の安藤照の手による鋳造「忠犬ハチ公臥像」が天皇、皇后両陛下に献上されていますが、生前に銅像が造られ、しかも塑像が宮中に供されると云うことは、人を含めて前代未聞のことだったと思います。
「忠犬」と云われた「ハチ公」も昭和10年3月8日午前6時過ぎ、ハチ公は普段行かない駅の反対側の稲荷橋近くにある瀧沢酒店北側の路地入り口で死去。享年11才と4ヶ月でした。死因は「フィラリア」だったそうです。
ハチ公の告別式は渋谷駅で盛大に行われ、上野博士の未亡人の八重や小林夫妻、駅や町内の人々が参列して、妙祐寺から僧侶が来てお経まで読まれたそうです。
ハチ公は初めの飼い主の上野博士と同じ青山霊園に葬られ、亡骸は本田晋の手によって剥製にされ、上野の科学博物館に今でも保存されています。
死後昭和10年7月8日には故郷の秋田県大館に渋谷のハチ公と同じ銅像が建ちました。そして昭和12年には尋常小学校の2年生の修身の教科書に「恩を忘れるな」と云うハチの話が載りました。
昭和19年には戦争が激化したために、民間からも金属を回収することとなり、ハチ公も戦地に赴くことになってしまいました。そして戦争が終わって昭和23年8月に安藤照の息子の安藤士によって、渋谷のハチ公像が再建されました。
昭和62年11月14日になって大館にもハチ公の像が再建されました。そして平成15年10月12日に、ハチ公の生家の前に、生誕80周年の記念の石碑も建てられたそうです。
山形県鶴岡市の藤島庁舎の入り口に、JR渋谷駅前のハチ公の銅像の試作品が飾られているそうですが、その「縁」で「鶴岡ハチ公像保存会」が平成18年に発足することになったそうです。その活動の一環として「忠犬ハチ公」の子孫捜しをするそうです。保存会会長に就任するのは薬局経営の高宮宏さん60才だそうですが、ハチ公にまつわる300冊の本の内容を纏めた「ハチ公文献集」(林正春 編)に出会って、「あのハチ公の子供や兄弟にはどんなドラマがあったのであろうか」と興味を抱いたのがきっかけで、子供や兄弟の行く末を調査するとともに、ハチ公の遺伝子を持った犬探しを思い立った・・と云います。
文献集によれば、ハチ公は秋田県二井田村の豪農の物置小屋で生まれたと云い、3匹の兄弟が居て2匹は鶴岡市と隣合う酒田市で育てられたと云い、ハチ公は生後二ヶ月で前述した帝大農学部教授の上野英三郎博士に門下生を通じて大正13年1月に贈られ、もう1匹は「東京の加藤粂四郎」に貰われ、「クマ公」と云う息子も居たと云いますが、その後は全員行方不明と云います。ハチ公の生家の現在の主人、斉藤良作さん57才も此の調査結果を「ハチ公もあの世で楽しみにしているのではないか」と期待を寄せていると云います。