[118]相沢中佐事件
第118回
■相沢中佐事件
事件は昭和10年8月に起きました。筆者は小学校3年生の頃でしたが、ある日新聞の号外が出たんです。夕方近くだと思いますが、何事かと思って庭先で其の号外を広げて見たんです。すると一面に大きな相沢中佐の写真が載っていました。見るからに軍人と云う顔で、凄い形相の怖い感じの人でした。
事件は昭和10年8月12日の午前に、東京三宅坂台上の陸軍省内の執務室で、軍務局長だった永田鉄山少将を現役の此の相沢陸軍中佐によって斬殺されたと云うものでした。
此の永田少将を相沢中佐は背部に二刀、こめかみに一刀、更に止めの一刀が咽喉部に加えられ、軍服はおびただしい出血に黒々と濡れ、絨毯は血の海に、即死同然の凄惨な姿を横たえるまで、殆ど一瞬の出来事であったと云います。
凶行時間は午前9時45分頃、永田少将は51才、加害者は剣道の達人として知られた相沢三郎中佐で46才、永田は陸士十六期、相沢は二十二期、軍政の中枢と隊付きとそれぞれにコースは違っていても、陸軍生え抜きの軍人であったことには変わりはありません。
この日の夕刊には永田少将は危篤であると報じ、犯人は某隊付きの中佐と名を伏せた陸軍省発表を載せましたが、此の夕刊の解説記事にもあったように、「現役将校が白昼公務執行中の上長官に対して危害を加えて危篤に陥らせたと云う事実は、我が陸軍の未曾有の重大事」だとありました。
この日八月十二日には相沢中佐は午前五時半に久里浜の家を出て、途中渋谷区松濤の自宅に立ち寄って身支度をし、午前八時半に三宅坂の陸軍省に出勤しました。その二階に軍務局長の部屋がありました。
この日は猛暑の月曜日でした。入り口のドアーは開け放され、入って左手には応接用の廣い円形のテーブルがあって、右手には非常持出し用の書棚の先に固定した木製の衝立に並んで、簾の衝立が立っていました。ですから内部の様子が見えていたと云います。
午前九時四十分過ぎ、永田少将は南向きの窓を背に局長用のテーブルに座って、前の椅子に座る東京憲兵隊長の新見英夫大佐と兵務課長の山田長三郎大佐と打ち合わせをしていました。
其の時衝立の右側から、異様な形相をした歩兵中佐が無言のままぬ?っと入って来ました。手には軍刀を抜いていました。殺気を感じた永田少将は立ち上がりましたが、同席していた山田大佐はす?っと出て行ったと云います。
右の方へ避けようとした永田少将の背後から、軍刀を振り上げて白刃一閃相沢中佐が斬りつけました。ですが一刀両断ではありませんでした。右肩に傷を受けた永田少将の傷は浅かったのです。永田少将はテーブルの前に廻って、隣の軍事課長室に逃れようとしましたが、追って迫ってくる相沢中佐の腰に同席していた新見英夫大佐が飛びつきましたが、中佐に斬りつけられて左上膊部に重傷を負って転倒して意識を失ったと云います。
隣の軍事課長室のドアーはロックされていて開きませんでした。永田少将のその左背部に向かって、相沢中佐は刀身に左手を添えて、渾身の力を込めて突き刺しました。切っ先は永田少将の心臓部に達していたそうです。
倒れた永田少将は気丈にも、入り口の方へ這って行きましたが応接用のテーブルの付近で力は尽きました。仰向けになった永田少将の躰の上から、其のこめかみに一刀を加えた中佐は、武士の作法通り永田少将の首筋に止めを刺しました。ここまで一瞬の出来事であったと云います。軍事課室から武藤章中佐が駆け込んで来た時には、永田少将は既に息絶えていたと云います。
此の「相沢事件」から半年後に勃発した二・二六事件の導火線となって時代は戦争の様相に変化して行きました。
今筆者の手元に昭和11年7月15日号の「週刊 国際写真新聞」と云う週刊誌があります。その頁の中に次のような記事が載っています。
《相沢元中佐 死刑》
(東京)六月三十日死刑の判決を受けた永田鉄山中将殺害事件の被告元陸軍中佐相沢三郎は、七月三日未明その刑が執行された。相沢元中佐の遺骸はよね子未亡人、長男正彦君始め親戚知己約二十五名の人々に護られ,落合火葬場で荼毘に付され、遺骨はよね子未亡人に引き取られて自宅に帰った・・・とあります。そして此の頁に写真があり、「遺骨を持つよね子未亡人」と「長男正彦君」の姿が載っています。どうも此の「正彦君」は当時は小学生らしい姿ですね・・・
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