[140]楠木繁夫と三原純子

2019年3月21日

第140回
■楠木繁夫と三原純子(くすのきしげお・みはらじゅんこ)
此の二人は夫妻ですが、三原純子は現代の三原じゅん子とは別人です。
楠木繁夫と三原純子は夫婦でしたが、楠木繁夫は妻の病気を苦にして自殺しました、療養中であった妻の三原純子も後を追うように若くして死去しました。
「楠木繁夫」は明治37年1月20日高知県の生まれで、本名は「黒田 進」と云います。昭和3年に東京音楽学校を中退し、中学校の教師となりましたが、昭和4年にオリエント・レコードから本名で吹き込み、その後「楠木繁夫」になるまでに55の変名を使っていたと云います。
昭和9年にテイチクに入社して「古賀政男」と出会い、それから楠木正成にちなんで「楠木繁夫」と古賀政男が命名したそうです。元々昭和6年に「キャンプ小唄」を誰に唄わせるか古賀政男は迷って、一時は逸材の藤山一郎にするかと思いましたが、結局は大阪コロムビアで活躍していた「黒田進」こと「藤村一郎」だったと云います。何か「藤山一郎」と「藤村一郎」は似ていますね。
又、楠木繁夫こと「藤村一郎」は、「藤山一郎」が唄った「酒は涙か溜息か」の唄の海賊版「酒よ涙よ溜息よ」と云う歌を大阪のタイヘイ・レコードから歌っていたそうです。此の歌は作曲は服部良一だったそうですが、聞いたことはありません。
「黒田 進」はレコードの吹き込みがないときは、カフェ街でアコーデオンを持って流し歩いていたと云います。所謂流しの「演歌師」ですね。
「古賀政男」と出会った「黒田 進」は、当時テイチクの新堀マークであった、楠木正成にあやかって「楠木繁夫」の芸名を貰い、ミスター・テイチクの称号も付けて貰ったと云います。
そして昭和10年2月15日に古賀・楠木のコンビで最初の大ヒット曲が生まれました。それが「白い椿の唄」です。これは良い唄ですよ。#3までありますが、曲が聴けないのは残念ですね。
  『白い椿の唄』昭和10年

  ♪ 雪もかがやけ 青春の
    花は涙の おくりもの
    風にきびしく 泣きぬれし
    あわれ乙女の 白つばき  ♪

此の歌は彼が感傷的な哀愁を切実に唄っていますが、此の歌は菊池寛の小説「貞操問答」を新興キネマが映画化して、それの主題歌として古賀政男が作曲したものと云います。
そして同じ昭和10年に、「楠木繁夫」の名前を決定的にしたのが日活映画「緑の地平線」であり、此の主題歌を歌った彼はまるで柔らかい感触のある美声で歌い挙げました。此の歌が彼の生涯の最大のヒット曲になりました。
  『緑の地平線』昭和10年
 

 ♪ なぜか忘れぬ 人ゆえに
    涙かくして 踊る夜は
    ぬれし瞳に すすり泣く
    リラの花さえ なつかしや  ♪

此の歌は#3までありますが、彼は乞われれば何処でも熱唱したそうです。時には涙を流しながら、情熱的に歌い、このような「楠木繁夫」を「古賀政男」は愛して居たと云います。そして昭和13年までの11曲すべてが「古賀政男」の作曲作品でした。此の間には「ハイキングの唄」や「スキーの唄」などもあります。
そして昭和13年「楠木繁夫」の「人生劇場」が発表されて大ヒットとなりました。此の歌は尾崎士郎の小説の同名の唄で、尾崎士郎の小説は昭和8年から11年間も「都新聞」「東京新聞」に連載された名作です。これは作者の自伝的なものと云われていますが、日活映画にも同名映画にもなつています。元来此の歌は#3までとされいましたが、幻の#4が二木絋三氏のWebサイトに掲載されています。これは実際の所誰の作であるか分からないそうです。此の歌にはセリフも入って居ますが、此の#4もはっきりしないそうです。
  『人生劇場』昭和13年

  ♪ やると思えば どこまでやるさ
    それが男の 魂じゃないか
    義理がすたれば この世は闇だ
    なまじとめるな 夜の雨   ♪
(セリフ)
  ああ 夢の世や 夢の世や 春は花咲き 夏茂り
  秋は紅葉の 紅に 冬は雪降る ふるさとの
  生まれは正しき 郷士にて 学びの園は早稲田なり

此処で幻の#4を記しておきます。

  ♪ 端役者の 俺ではあるが
    早稲田に学んで 波風受けて
    行くぞ男の この花道を
    人生劇場 いざ序幕    ♪

「楠木繁夫」はその後昭和19年にコロムビアから戦時歌謡の「轟沈」と云う歌も出しています。