[143]昭和の歌「アラビヤの歌」他
第143回
■昭和の歌「アラビヤの歌」他
『アラビヤの歌』唄・二村定一(ふたむらていいち)・・昭和4年
♪ 砂漠に陽は落ちて
夜となるころ
恋人よなつかしい
歌を歌おうよ ♪
此の歌もずいぶん歌われていましたね。何となく哀愁の漂った歌で、人々の心を休ませた・・と云う感じで、しんみりとしたのではないでしょうか?
此の歌手も名前は有名でしたが、姿は見た事がありませんでしたが、本名は「林貞一」山口県下関出身、明治33年生まれで、昭和初年にジャズシンガーとして出発し、その後にエノケン一座を結成しましたが、喧嘩別れをして満州で公演していたようですが、戦後エノケン一座に復帰しましたが、昭和23年9月12日に公演中に病死しました。享年48歳でした。
『女給の唄』唄・羽衣歌子・・昭和6年
♪ わたしゃ夜咲く 酒場の花よ
赤い口紅 錦紗のたもと
ネオン・ライトで 浮かれておどり
さめてさみしい 涙花 ♪
此の歌も夜の盛り場で大分歌われたもので、子供のころにはずいぶん聴かされたものでした。しかし此の歌手の姿は見たことがありませんでしたが、後に写真は見たことがありますが、幾つくらいの時かは分かりませんが、華やかな感じではなく、何処にでもいるような「おばちゃん」と云うタイプです。
『涙の渡り鳥』唄・小林千代子・・昭和7年
♪ 雨の日も風の日も 泣いて暮らす
わたしゃ浮き世の 渡り鳥
泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
泣けば翼も ままならぬ ♪
此の小林千代子の歌う此の歌は、前にも書きましたよね。子供のころチンドン屋が盛んに奏でていました。チンドン屋の後にくっついて行きましたよ。だから此の歌はすっかり覚えていました。戦中には「小林千代子」は「徳山 璉」と戦地に慰問に行って居ましたが、今はどうしていますかね?。「小林千代子」は沢山の歌を歌っていますが、此処でもう一曲記しておきます。
『旅のつばくろ』唄・小林千代子・・昭和8年
♪ 茜い夕陽の 他国の空で
しのぶ思いは みな同じ
泣いちゃいけない 笑顔をみせて
強く生きるの いつまでも ♪
此の歌は#3まであります。
「小林千代子」はいつ頃生まれた人であるのか、名鑑に載っていませんでしたので分かりませんが、昭和3年頃のラテン音楽を最初に吹き込んだ人ではないかと思われます。昭和13年頃には「徳山 璉」等と中國華北に慰問団に参加した若い時の写真がありますが、丁度筆者の母親くらいの年齢でしょうか? とすると百歳ですよね・・今なら。
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初めまして。私は平成生まれの十代です。
いつも本当に興味深く読ませて頂いています。通わせて頂く様になってから、昭和という時代をもっと知りたいと強く思うようになりました。
これからも頑張って下さい。応援しています!