人には、男女という枠が毅然としてあり、それぞれを別けたがる。そしてそれは、当然の主張である。その一方で、人はうすうす感じとっている。感じとっているのだが、人はあまりそのことを言いたがらない。ならば、ここではっきり言ってあげよう。
男女の肉体は違えど、その中身には違いがない。同じようなものである。ここまでは、本当は誰しもが知っている。では、この際だから、考え方を逆転してみてはどうだろうか?
男女という枠がしっかりあり、両者は異なると教えられた一方、所詮、男女は変わらないとどこか感じているのがこれまでだった。これを、男女の中身は変わらないという前提のもとで、肉体は異なっているという考え方にしてみたらどうだろう。
たいして違わないようだが、意識のうえではおおきな異なりとなる。なぜなら、初めから別のものであるという前提が崩れ、根本が同じであると考えるだけで、見る目が一気に変わる。知っていることでも、主点を切り替えるだけで逆転となりうる。
男は男らしく――女は女らしく。
このフレーズは、伝統的な考え方であり、陳腐に感じられることだろう。これが言わんとするところは、基礎を大切にするということにほかならない。土があってこそ、植物や動物が生きられる。しっかりと地に足をつけていられるのは、まさにこの基盤があってこそに他ならない。男という存在があり女という存在があればこそ、バランスがとれ、極に至らずに済むというふうに。
この主張は、実際に鋭いところをついている。仮に、男女の枠を完全にとりはらうなら、訪れるのはカオスということになる。秩序を保とうにも、保つべき基盤をうしなってはどうして立っていられよう。男女は、今の日本の状況をうつす鏡でもある。日本を簡単に表現すれば、カオスと姑息ということになる。伝統的な日本文化は、すでにその主体をうしない、カオスのなかにある。秩序や基盤がないため、大事なものは金であり、見た目の美しさであり、見せかけの良いこととなる。
人は、それらを持つものを露骨に優遇する。そこには、節度もへったくれもない。
見た目や虚勢に頼るしかないため、言動は偽善でしめられ、偽善の道から外れないように神経をすり減らす。立派であることを示そうとするための虚勢ならまだしも、他者の目に奇妙に映らないために腐心する。これはもはや、悲劇をこえた喜劇と化している。
が、この状態は、あるべき状態の一つでもある。となれば、残った基盤を徹底して破壊することが求められる。そうなれば、人は彷徨うしかない。そして私は、おおいに彷徨ったらよいと思っている。いずれ、カオスはやってくる。遅いか早いかの違いだけだ。飛躍のまえには、いつもカオスが待っている。おおきくジャンプできるのは、ほとんどの場合、スランプや迷いのおかげだ。人であれ歴史であれ、パターンは似たようなものだ。大事なのは、今、それを経験する時期にあるかどうかだけだ。
男女の枠をはずす――この挑戦は、もはや逃れられない時に来ている。男は女の、女は男の領域を獲得すればよい。それを獲得したあとで、その後どうすればよいか、迷走をどのようにくぐり抜けるかを考えればよいだけである。体験してみなければ分からない。すべてを含んでいく作業と、すべてを捨てさる作業こそが、熟練度をおしあげる。勇敢に、迷いの世界に飛びこめばよい。ウーマン・リブは、成功をおさめた。マンズ・リブも、それに続けるのか。むろん、続いていくことになるだろうが・・・。
椎名蘭太郎