[07]キング・オブ・バランス

中高年の男が、なぜダジャレをいうか知っているかね?
彼らは、まるで赤ん坊のようだ。赤ちゃんが、バウバウいうのとおなじことだ。中高年の男は、赤ちゃんのようにダジャレをいう。そういった甘えかたしかできやしない。誰にも甘えられないから、ダジャレで欲求を満たすのだ。
人の中身は、老若男女かわったものではない。日常、強がっている者は甘えたい。普段から、甘えている者はしっかりしたがる。
シーソーのようなものだ。一方の極にいきつけば、もう一方の極に移るしかない。シーソーが一方にだけ傾き、動いていなければ面白くない。静止したシーソーは、死んだようなものだ。心の原理そのものというわけだ。
女は、愛嬌の生き物だ。いつも愛嬌をふりまいていると、やがて疲れはてる。一方の極にかたむきすぎると、あるときを境に無愛想になる。心が腐るのを防ぐために、無愛想になるのだ。
逆に男は、無愛想だ。普段より無愛想なので、苦しむ心がダジャレに活路をみいだそうとする。本人が気づいていなくとも、ダジャレは甘えの表現にすぎない。
また、心のシーソーには表裏がある。表の極におもきが移れば、裏がかるくなる。裏におもきが移れば、表がかるくなるという具合だ。
今は女の時代だが、女の時代だからこそ女がかるくなるということは、十分、考えられることだ。優遇されれば、中身がかるくなる。厳しくなれば、中身がおもくなるとしたらどうだろう。
日本は、豊かな物質文明を誇っているが、それがゆえに中身がかるくなる。これは、どうしようもない。
世界には、逆説的なことが非常におおい。日本の女は優遇されているが、それはあなたたちを本当にすばらしい道へと導くだろうか。あなたたちは知っているはずだ。優遇されればされるほど、重要なもう一方がうしなわれていくことを。
環境に適さないサイドが、実際はおおきく飛躍することはありうる話だ。まるで、兎と亀のはなしのようなものだ。女の時代だからこそ、重要なものが男に傾いているとしたらどうだろう。このようなことをいう者は、それほどおおくないが、事実はどうだろう。
女の真の精神解放は、男の精神解放がなされてこそ、はじめて達成される。男女は、二つで一つのセットである。仮に、一方だけが飛躍したとしても、ろくなことが起こらない。左足だけがおおきくなり、右足がちいさくなるようなものだ。男は女の裏返しであり、女は男の裏返しでしかない。そのことを、よく考えると面白いだろう。
椎名蘭太郎